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最高学部:学部長ブログ
2017年 3月18日

ある人の追善に
埋み火も消ゆや涙の烹(に)ゆる音

松尾芭蕉の『あら野』所収の一句です。

別の本には、
埋み火や涙の落ちて煮ゆる音
とあります。二句とも同じ意味です。

「落ちる悲しみの涙が煮えて音を立てて、埋み火も消えてしまう程です。」
おおよそ、こんな意味です。
「ある人の追善に」の前書きは、『笈日記』には、「少年を失へる人の心を思ひやりて」とあります。
岐阜の安川落梧の幼い子供が亡くなった時に送った悼句です。

芭蕉は『野ざらし紀行』でも、
手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜
と、有名な句をよんでいます。

母の遺髪を兄から受け取った芭蕉は白い髪を秋の霜のように感じたというのです。
熱い悲しみの涙が遺髪を濡らしているのです。
芭蕉自ら「心あまりて言葉足らず」と述べていますが、形式を無視した母の死への激しい悲しみがほとばしり出るような句です。

母の遺髪の句の激しさに対して、「埋み火」の句には、悲しみの中にも静謐があります。
「埋み火」は、炉や火鉢のよくおこった炭火に灰をかぶせてそのぬくもりを長持ちさせることです。
情景を踏まえれば、「あなたはきっと幼い子をなくして、火鉢に手をかざし、その息子のことを思いながら埋み火をじっと見ていることでしょう。私もそんなあなたを思いながら、埋み火を見ながら冬の夜を過ごしています。」となるでしょう。

3月は東日本大震災の時です。
地震が起きたのは、午後2時46 分でした。
その日の夜、東北地方では雪が降っていました。雪が黒く暗い海の上に消えていきます。津波が去ったあと人々は大きな焚き火をしました。

「あの火は命だった。あの火には励まされた。すべてを流されても火があるのだ。そう思いながらね。寒かったけど生きているんだなと思ったよ。あれは送り火だったんだよね」

2011年の夏、被災地を歩いた時、こんな話を聞きました。そして、送り火はその時には、招魂の迎え火に変わっていました。
黒天を見つめ、冥海の遠くに目を凝らし、壮絶な炎を前にした人々のことが思い浮かびます。
消えかかる残り火は、涙にかすんでいました。沈黙の輪でした。
それは、芭蕉が埋火に落とした涙です。暗い浜辺に波の残響があります。人々の涙は、篝火に落ち煮えたのです。

仏教の教えに、同悲と云う言葉があるということを、雑司ヶ谷の鬼子母神堂の説教で聞きました。
自分の多くの子どもを育てるために、多くの子供の命を奪っていた鬼子母神は、懲らしめを受け彼女の一人の子をお釈迦様に隠されたそうです。鬼子母神は嘆き、子を失われたものの悲しみを初めて知ったそうです。愛されたものを失う悲しみは、同じ体験により、同じ悲しみにより心を通じ合うことが出来る。鬼子母神の悔恨は慈愛に変わり、人々の信仰を集めたのです。

同情ではありません。同悲です。
体の痛みを分かち合うことは出来ません。同傷の共有はあり得ません。しかし、同悲は共有できるかもしれません。
私たちは、辛い思いをした過去を共有した人のことを知っています。それは言葉にならないものだったかもしれません。沈黙の連帯です。

同悲が生み出したものは小さな希望です。
埋み火に手をかざし落とす涙です。煮える涙です。
津波の去った後に天空へ上った篝火です。命の炎です。

コリントの信徒への手紙(二)は語りかけます。
「キリストの苦しみが満ち溢れて私たちにも及んでいるのと同じように、私の受ける慰めもキリストによって満ち溢れているからです。」
聖書はさらに語りかけます。<同じ苦しみに耐えることが出来る時>、<希望はゆるぎない>ものになるのだと。そして、「なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしは知っているからです。」と。

あなた方を育んだものは、学びの園の心地よいみどりの風ばかりではありません。
祝意を込めて言いましょう。同じ悲しみが友を生んだのです。
同悲は同窓の希望の埋み火です。昇華し行く手を照らすかがり火です。

神共にいまして、行く道を守らんことを。
旅立つ諸君に大いなる幸あらんことを祈ります。

追記
今年は、横浜の捜真女学校高等部・以前勤めていた立教新座中学校、そして、例年のごとく自由学園最高学部で、卒業に際しての礼拝奨励をしました。話の内容は、それぞれ違い、聖書の引用の個所も違いますが、芭蕉の句と同悲のことは引用しました。

2017年3月18日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)




2017年 3月15日

ひつじ書房から『〈ヤミ市〉文化論』が刊行された。
2015年9月に、立教大学、東京芸術劇場、豊島区の三者で「池袋=自由文化都市プロジェクト」を実施し、その時池袋西口公園でホッピービバレッジ株式会社等の協賛を得てイベントを行ったり、東京芸術劇場ではカストリ雑誌等の展示を行った。 立教学院展示館、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター、豊島区郷土資料館さらに、明日館などでも共催の展示を行なった。本書はその一環として企画されたもの。
目次をあげておく。

Ⅰ シンポジウム
戦後池袋の検証―ヤミ市から自由文化都市へ―   吉見俊哉、マイク・モラスキー、川本三郎、石川巧(司会)
エッセイ 1945年吉原雑記  渡辺憲司

Ⅱ 都市とメディア
都市としての闇市       初田香成
民衆駅の誕生―国鉄駅舎の戦災復興と駅ビル開発  石榑督和
読売新聞による「新宿浄化」キャンペーン―ヤミ市解体へのエール  井川充雄

Ⅲ ヤミ市の表象
敗戦後日本のヘテロトピア―映画の中にヤミ市をめぐって  中村秀之
小説テキストにおける闇市・闇屋の表象  渡部裕太
石川淳「焼跡のイエス」から手塚治虫、梶原一騎、王欣太「ReMember」
~ 戦後マンガにおける闇市の表象分析~
 山田夏樹

Ⅳ 風俗と表現
占領期東京の小劇場・軽演劇・ストリップ -秦豊吉と東郷青児の邂逅   後藤隆基
占領期のカストリ雑誌における原爆の表象   石川巧
昭和二〇年代の探偵小説 -『宝石』の作家たちと新宿  落合教幸
映画『君の名は』(1953〜1954)論 戦後的メロドラマの通俗性と感傷性  河野真理江

冒頭のシンポジウム。吉見は1940年代半ばから50年代初頭の狭間に、
帝国日本からポスト帝国への移行の断層への直視の必要性を語る、モラスキーは、居酒屋研究の中でストリートカルチュアーの残存と流動性に解放区の存在を見る。
川本は、永井荷風、種村季弘の見た池袋を浮き出させ既成的ルールのはみ出しの意味を問う。

初田は新橋ヤミ市を中心に、その成立過程を都市の<孵卵器>と呼びながらその成立を実証している。
石榑は豊橋民衆駅・池袋西口民衆駅の建設過程を述べながらハブ駅の役割を考察。
井川は新宿ヤミ市を取り上げ〈新宿浄化〉の実態を、ブランゲ文庫資料の「山の手商工新聞」などを使いながらGHQとテキヤの対応などに新見を提示する。

中村は、ミッシェル・フーコーの「ヘテロトビア」概念を解きほぐしながらヤミ市の映像的表象を語る。
大映の『雷雨』(昭和21年公開)が、ヤミ市が重要な役割を果している最初の作品であると指摘。
ヤミ市表象の政治的無意識などの論立ては鋭い。上野闇市の実景は資料的にも興味深いもの。

渡部は闇市、闇屋の小説テキストの表象が、そのスタイルを継承しながらテーマパークの作品化という方向へ一元化していくという。
山田は、闇市から現在も抜け出せない戦後日本の問題性にも言及している。

後藤は、占領期の小劇場における軽演劇と派生した裸体表現の作り手にふれて敗戦直後の〈現在〉をあぶり出そうとしている。東郷青児の一面など新たな資料の発見に光彩がある。
石川の論考は、「被爆者はどこに行ったのか?―占領下の原爆言説をめぐって」(『Intelligence』20世紀メディア研究所、2013.3)の続論として書かれたもの。
架蔵のカストリ雑誌をふんだんに用い、論の最後を、「怖いもの見たさの感覚で原爆に関心をもちつつ、実体としての被曝者には関心を払おうとしなかった読者たちの二重論理」があると述べる。

落合は雑誌『宝石』を中心に提偵小説の復興をたどる。
河野は、「すれ違い」が戦後日本の時空間の歴史的特性を体現していると指摘する。

そして、私。1945年の8月15日の吉原をドキュメント風にまとめようとしたのだが、これは思惑はずれに終わった。
戦後文学史ではふれられていないであろう。48年刊行娼婦小説でベストセラーになった各務千代作の『悲しき抵抗』の背後に、戦後直後の哲学書の爆発的流行やフランス哲学のアランの思想の影響のあることなど、本作の偽作の可能性などを問題にしたかったのだが腰折れエッセイで逃げた。

あえて云えば娼婦小説にすら、又売春婦のうごめく非倫理の世界にも、戦争嫌悪と生への希求が強く内在していたのである。
それは新たに踏み出した風俗の肌身の哲学であった。

最後に館山の「かにた婦人の村」と自由学園出身の名誉園長天羽道子氏にふれている。
拙作を除けば力作がそろっている。忘れてはならぬ戦後70年の意味を問うためにも、読んでいただきたい一書である。

2017年3月13日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)




2017年 2月25日

先日、妻が、振袖を着た女の子の人形を、孫のために買ってまいりました。明日館で買ってきたと云うことです。
「お父さん、いいでしょう。よく出来た人形でしょう。」と妻が言います。
「まあね。本物の生地かね。結構高いんじゃないの。」と私。
「いくらだと思う。」
「分からないが、2000円かな」
「何云ってるのよ。おもちゃも高いのよ。ガチャガチャばっかり買ってやるおじいちゃんには分からないのよ。」
「5000円もするのか。」
「そんな値段じゃ買えないわよ。一生大事にしてほしいのよ。この人形。」
一生大事にする人形などと云うものがあるのか。その時の会話はこれで終わりました。

もう一つの話です。
12月に、学部の2年生と、奈良京都に修了旅行に行きました。
やさしい介護?に囲まれて大変楽しい旅行だったのですが、その時のことです。私は、左程のどが渇いていなくても、自動販売機を見ると何か買いたくなります。集合時間まで少し時間があり、手持ち無沙汰のままにいましたら、目の前に自動販売機がありました。何を飲もうと決めるでもなく、ビールという訳にもいくまいなどと思案していると、学生に声をかけられました。
「先生、旅行中の自動販売機の使用は自粛ですよ。のどが渇いていたら私の水飲んでもいいですよ。」と学生がペットボトルを差し出してくれたのです。
私はちょっと驚きました。今時、自動販売機を使うのを自粛するなどと云うのは考えられなかったのです。

***

2006年の流行語大賞にも選ばれましたが、品格と云う言葉がその頃いろいろなところで使われました。
坂東真理子さんの著書「女性の品格」が、ベストセラーになって火をつけたような気もします。藤原正彦氏の「国家の品格」という本もその頃でしょうか。上から目線でついていけないような気もしましたし、日本の伝統文化偏重の懐古主義的匂いが気にもなりました。その頃私も少し悪乗りして、「江戸の品格」というエッセイを書きました。そして、品格をダンディズムに近いもので、江戸っ子の心意気のようなものであろうと述べました。粋につながる意気地・張りといったような態度が、品格につながるのでないかと考えたのです。

江戸っ子の品格をもっとも色濃く有していたのは勝海舟であろうと思います。洗礼は受けていませんが強いクリスチャンティも有していました。海舟は、朝鮮半島への侵略、又日清戦争などにも強く反対していますが、このときによく使っていたのが品格と云う言葉です。
他国を下に見て植民地とするようなことは、国家の品格を失うものだというのです。品格とは、互いに認め合うことだ、相手の弱みに付け込んで戦争を仕掛けるなどと云うことは、相手の品格を認めないことでもあり、自分の品格も失うことにもつながるのだと云うのです。(このあたりのことは、最近のブログにも書きましたので、御読みください。)
こんな詩のあることを思い出しました。「ニーバーの祈り」としてよく知られているものです。

O GOD,GIVE US
SERENITY TO ACCEPT WHAT CANNOT BE CHANGED
COURAGE TO CHANGE WHAT SHOULD BE CHANGED
AND WISDOM TO DISTINGUISH THE ONE FROM THE OTHER

神よ
変えることの出来るものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることの出来ないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。(大木英夫訳)

学部教育改革の会議で交わされた言葉を想起します。自由学園のもっとも自由学園らしい存在は最高学部である。<永久的に独創的であれ>と云うものです。
独創的であることの要件は、変えるべきものと変えてはならいものの識別です。
高価であっても、それが一生の宝になるようだったらそのものを大切なものとして贈る。明日館で売っている人形にそのことが云えるでしょう。
自動販売機で物を買わないようにしようというのも頑固な話です。しかし、世界中でこれほどまでに自動販売機が出回っているところもありません。人口密度における自販機台数は世界一です。高温多湿の気候であるためだとか、設置が安全に保たれる国だからとか、最新の技術のサービスであるといった意見もあります。しかし、これは日本の誇るべきものではありません。
台湾の友人の話です。台湾も自販機の多い国です。
「原発をやめることになったから、まず自販機を減らすんです。そして、ネオンも減らしますよ。その方が光が美しく見えますよね。」と友人は笑って云いました。
日本の国は、本当の自尊心や品格を失っているのです。愛国を語るものが、愛する誇りを失っています。愛される謙虚さを失っています。他国の品格を認めないことは、自国の品格のなさの露呈です。

最高学部は、権力権威に束縛されず、誇りをもって、変えるべきものと変えてはならぬものを識別した知恵を有して日本の大学教育をリードしていきたいと思います。

ネパールでのワークキャンプ・デンマークのホイスコーレ留学さらにポーランドの大学との交換協定も結ばれました。それは思い付きによるバラバラの国際協定ではありません。直視しているのは自由と人権への国際的視座です。
学生の研究成果が、学会で発表されます。これも大学生としては異例のことです。
次年度は、幼児への教育・福祉へ視座が統一テーマとして考えられています。やがて親になる若者の子育てへの学びです。

大学に求められているのは効率主義的産業社会の手足になるための教育ではありません。社会が求める理想への共働者です。
働くことに真の価値を模索し、理想のためのリーダーを育てることこそが大学の使命です。教育の中身が問われる時代です。そのために求められているのは、教育の品格です。
真の意味の少数教育<世界最小の大学>に誇りを持った自由学園最高学部は、永久に独創的です。

***

最近マイボトルを愛用していますが、ガチャガチャの誘いは断り切れません。

2017年2月25日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)




2017年 2月14日

勝海舟に関することを調べていたら、海舟が足尾鉱毒事件の田中正造のことを、高く評価していたことを知った。それで急に思い立って、館林の田中正造記念館を訪ねた。

田中正造記念館

以前、保育園の一角にあったものが、館林の駅から徒歩で15分の城下町の風情を残す旧鷹匠町(現大手町)に2013年に移転したもの。パネルやビデオを中心に展示されている。
足尾鉱毒事件への支援者展示の最初に勝海舟の紹介があった。これに榎本武揚・谷干城が並んでいた。

記念館は和室を改造したもので大きくはないが、心のこもった記念館である。ボランティア活動によって運営されているもので、説明も実に懇切丁寧であった。「煙害で消えた緑の松木村」などと云ったカルタや小学生向けの教材ビデオも上映されている。

明治31年6月30日の事として、『海舟座談』(巌本善治編)には、
「田中が夕べ来た。『お前は何になるのだ』というたら、「総理大臣だ」というから、それは、善い心掛けだ、ワシが請判をするといって、証文を書いてやった。名あてが閻魔様、地蔵様、勝安芳保証としてやった。大層悦んで帰ったよ。」と記されている。
その証文は、地蔵様が阿弥陀様に変わったりしているが、「百年の後、浄土又地獄江罷越候節は、屹度総理に申付候也、半髪老翁請人 勝安芳 阿弥陀、閻魔両執事御中」(勝海舟全集第22巻「秘録と随想」と残った。

海舟は、死んだら田中正造を百年後の総理大臣にするように、阿弥陀様や閻魔様に頼んでおくと誓約したのである。
戯言では済ませまい。今から約百年ほど前のことである。

それ以前、明治27年の『海舟座談』(巌本善治編)には、
「鉱毒の事は、とうに調べて置いたよ。わざわざ日光へも行って見たのさ。あっち(足尾)の方へは行かんがネ、歌が詠んであるよ。
かきにごし かきにごしなば真清水の 末くむ人のいかにうからむ
エ、明治27年サ。古川が会いたいと言って来たのだったが、会わなかったが、よかったよ、ナニあれも分る男だろうから、話し合いを付ければ、それでいいのだがネ。・・・委員とか何とか云って、色々のものを持ってきたよ。返したがね。田中(正造)は知らないのだネ。何か、もち上がりそうかエ。どうせ、血を見ずには、止むまいよ。一つ騒ぐ方がいいのサ。」といった記述がある。古川は、足利銅山所有者、古河市兵衛である。

恥ずべきことだが、私の中にも、足尾鉱毒事件は過去のような思いがあった。
2011年の東日本大震災の時には、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、今また新たな問題を提起している。もう一度真正面から受け止めねばなるまい。

石川啄木は、盛岡中学3年の時、田中正造の天皇直訴に感動してカンパ活動を行ったそうだ。惣宗寺には、啄木の碑がある。
夕川に 葦は枯れたり血にまどう 民の叫びのなど悲しきや
惣宗寺(佐野厄除け大師)にも回ろうと思ったが、何しろ関東平野は寒い。館林のうどんで暖まったら動けなくなった。ナマズの天ぷらも白身でさっぱりとしたいい味であった。

勝海舟のことは『東京人』5月号に短いものを掲載する。田中正造には一行触れた。

2017年2月14日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

 




2017年 2月6日

『東京人3月号』(都市出版)特集「これはパロディではない」は発売されました。拙稿は、「もじり、本歌取り 江戸っ子の知的で粋な遊び。業平を貧乏酒乱に変える江戸」などと題されたものです。
江戸時代初め出版メディアが成立して以来、日本の古典の作品の中で、もっとも読まれた作品は、『伊勢物語』です。ロングセラーと云ってもいい作品です。この『伊勢物語』のパロディ作品が『仁勢物語』(にせものがたり)です。

以下の話は『東京人』では紙数もあり触れていませんが、私の好きな一章です。
『伊勢物語』12段。有名な東下りの段です。
武蔵野まで恋しい男と逃げて来た女がとらえられます。男が逃げ込んだ草むらを追手が焼いてあぶりだそうとすると、女は必死の思いで歌を詠み懇願します。
武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれりわれもこもれり
(武蔵野は今日は焼かないでください。私の愛しい人が隠れていますし私も隠れているのですから・・若草は、若い二人のことも云うのでしょう)

これに対して、『仁勢物語』は、追われてきたキリシタン夫婦の話に変えます。武蔵野の中に隠れている二人を追い出そうと火をつける直前、妻が懇願します。
武蔵野は今日はなや焼きそ浅草や夫も転べり我も転べり
(武蔵野は今日は焼かないでください。夫の私も転宗いたします。・・浅草は小塚原に移るまで江戸の刑場、その意味も込められています。)

この後の結末がいいのです。『伊勢物語』は、二人ともにとらえられましたと終るのですが、『仁勢物語』は、「夫婦ともに助けて、放ちけり」と終ります。
キリシタンの話、もちろん悲惨な話が多いです。迫害は悲惨な現実を生み出しました。一方で、キリシタンの教えに頼らざるを得なかった庶民の気持ちに寄り添うような形の作品が生まれていることも記憶していいでしょう。

文芸の卑俗化と云った表現がパロディに対する一般的な文学史的評価ですが、そのような古典的な解釈のみで江戸のパロディ文化を語ることはどうも的を射てはいません。
20年以上も前のことです。ハーバード大学のヒベット先生と何度もお話をする機会がありました。「江戸の笑い」に強い興味を持たれ編著も出された頃でしたが、物静かに何度も「日本人の研究者は笑いに対して卑屈なのではないか。卑俗化と云った言い方は「パロディ」の自立を日本人自ら笑いに逃げ込もうとしているのではないか。」そう私たちに問いかけました。そんなことも思い出しました。

今夏の特集号はその見出しを「これはパロディではない」としています。
「パロディ」の特集の題としては奇妙に見えるかもしれませんがこれは卓見です。実に思い切った表題だと思いました。
パロディを越えなければ、否定しなければ、ほんとうのパロディは生まれません。
権威あるもの、もしくはカノンの伝統的古典に対して、パロディがもう一つの別の個性として自立した作品であることを見事に云い現わしていると思います。

そんな思想の流れに、『仁勢物語』から大田蜀山人へと江戸時代のパロディ文化をとらえてみたいなどと思ったのですが・・・。
拙文はどうもうまくいっていませんが、横尾忠則・萩原朔美・河北秀也・宮武外骨などの多彩な言説、加えて杉本博司と都築響一対談などです。立ち読み必見です、しばらく動けなくなりますよ。家でじっくり読むのもおすすめです。

2017年2月6日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)




2017年 2月1日

元旦 午前中、奥日光戦場ヶ原散歩、高い木の上に枯れ木を集めた大きな鳥の巣かと思いきや、熊が冬眠前に木の実を食べる巣(熊だな)の跡だそうだ。夜、深酒一睡後眠られず、妻持参の『対訳 ポ-詩集 加島祥造編』を寝床で英語音読。これが、百人一首を音読すると同じくらい気持ちがいい。この年で初感覚。江戸川乱歩の名の由来から、エドガ-・アラン・ポーは推理小説家で著名だと思っていたが、フランスなどでは詩人としての名が高いそうだ。乱歩ゆかりの鳥羽の海やポ-ゆかりのニューヨークの喫茶店、ヴァージニア大学のことなど思い出しながら夢路。ポーの詩「大烏」に熊野の八咫烏が交じり合ったような初夢。

2日 例年のごとく輪王寺初詣。「福もってこい・福もってこい・・」のコマーシャルソングが耳にずっと残って思わず口ずさむ。正真正銘二日酔い美味大正風コロッケワインなし。

3日 年賀状約400通。今年もほとんど不義理のまま返信せず。来年こそはすべてに返事と毎年のごとく思う。

4日 昨夜から『東京人』3月号掲載の原稿「江戸のパロディ」400字16枚を一気に書く。右肩あがらず。大田蜀山人19歳の詩壇デビューの折、平賀源内に序文を依頼した平秩東作の狂歌(愛妻追悼)に触れようと思ったが書き込めずに終わる。井上隆明著『平秩東作の戯作的歳月』(角川書店)の紹介も出来ず。無念。

5日 湯島天神から上野に回り蓮玉庵で鴨南そば。鈴本で初笑い。五代目馬風元気、77歳か。九代目正蔵に渋みがでた。

6日 3月刊行予定『江戸遊里の記憶-苦界残影考』(ゆまに書房)の再校に手をつけ始めるも、進まず。書くのも読むのも好きだが校正は見るのもいやだ。

7日 学園始まり会議連続す。研修会参加、キリスト教主義学校における教員のあり方についてグループ討論。『日本人の大地像』(海野一隆著)年越しで読了。日本における地動説江戸の初期からありとのこと。神仏合一の歴史など卓見。

8日 学生K君らと初場所国技館と相撲見物の予定が、当日券朝早く売り切れ、すみだ北斎美術館に行く。庶民の画家がすこしお高くとまったような、瀟洒な美術館。回向院の膃肭臍(オットセイ)の墓など案内。両国橋から柳橋へと散歩。

9日 祭日返上で教員会議。『天皇と和歌』(講談社選書メチエ)著者鈴木健一氏より寄贈。愛という権力・武力と対決する和歌・文化を体現する天皇などの目次あり。秀吉の朝鮮出兵を諫め、天下のためにも「遠慮可然」と必死に思いとどめた後陽成天皇の書(京都国立博物館蔵)ことなど思い合わす。

10日 始業式。「ゆっくり歩めと」と一言。夜、吉祥寺にて福島泰樹ライブ。福島氏とは、30年前に知り合った。中原中也の詩を絶叫する歌人。法華宗の僧侶。筋金入りの反戦活動家。中也の弟思郎さんのハーモニカの話など懐古し感涙。

11日 クリスマスマーケットなど思いつつH君ポーランド土産のホットワインを半分空ける。

12日 帰路駅前で新得共働同学舎のチーズでちょい飲み。銭湯初風呂と思ったが寒さに怖気づく。

13日 肩痛のリハビリ理学療法功を奏すも、帰路、図書館で6冊借り元の木阿弥。

14日 終日家にて『江戸遊里の記憶』再校仕上げる。気恥ずかしき次第、鬱なり。

15日 東武博物館にて講演会。遊女高尾の磐城・塩原・仙台・坂戸での伝聞など、意気地の意味を漫談風に語る。カルチャーでの30年前からの生徒も聴講に来てくれる。最長の教え子なり。感謝に講演熱が入る。帰路、浅草「アリゾナキッチン」なく、初店一合。

16日 演習黄表紙読み初めのつもりが駅前でお茶会。夜、4月からの『東京人』連載「赤坂人物散歩」(仮称)の打ち合わせ。執筆前の放談が一番楽しい。酒後の卵かけ御飯。これまた絶品。太るわけだ。

17日 インディアナ大学ジョーンズ教授より電話。共編翻訳「EDO ANTHOLOGY」第一巻(第二巻既刊)に助成金の由。

18日 立教時代の同僚森氏来園。学内を案内。氏中国哲学者、久闊を叙し談論。

19日 講義日本文化史「北斎の人生」。剣道八段原氏と飲む。酒道の風格あり。

20日 ゆまに書房に再校渡し、何時ものごとく「うどん屋 立山」にて何時ものごとく小酌のつもりが、隣席の70歳越えの立教野球部OBと喧々諤々酩酊。

21日 朝から雑司ヶ谷七福神巡り。鬼子母神から雑司ヶ谷の墓地を抜け護国寺手前の清土鬼子母神まで。法明寺墓地の伝楠木正成公息女の墓、小さくて可愛い。不忍通りの鄙びたフランス料理店でプロバンスの話に花咲く。脹脛膨張。

22日 大相撲千秋楽。千賀の浦部屋打ち上げパーティー。10人ほどの小さな部屋、関取はいないが、やがて稀勢の里が生まれることを期待。和気藹々、ちゃんこ鍋で芯から温まる。

23日 入試。夜『勝海舟とキリスト教』(下田ひとみ著)・『東アジア共同体と勝海舟―九条改憲をめぐる情勢と課題―』(下町総研)読了。「我が道には争ひなし、我は兵を語らず、吾は戦はず」(安藤昌益)の言も思い合わす。昌益、羽仁もと子の故郷八戸の町医者。

24日 面接試験。みんないい目をしている。寸時青春を共有。夜、吉祥寺にて小酌、学園ミュージカルのことなど夢談義。

25日 学部棟4階よりの富士山夕景、沈黙沈思を誘う。秋津・新秋津間、乗り換え酔夢誘惑ロードで独酌。陶然。台湾産うなぎの肝焼き大ぶりにて安価旨し。

26日 『高田屋嘉兵衛』(生田美智子著 ミネルバ書房)と『菜の花の沖』(司馬遼太郎)を比較しながら読む。前者細密後者大雑把。

27日 先年刊行の『標準問題精講 国語 特別講義 読んでおきたいとっておきの名作』(旺文社)の編纂者仲間と志木にて小酌。カワハギの肝、ぬる燗に合う。

28日 卒論相談にN君来。山本鼎の足跡を追え、フランス・ロシアが鍵だなどと無責任指導後、年寄り暴言と反省。午後引っ越しの留守番。爺爺二人、ドイツワイン一本開け、眠気もほどよく強いもんだなどと自慢していたらノンアルコールの表記。味覚も衰えた。

29日 孫と終日ディズニ―チャンネル。

30日 仮題「浮世絵で読み解く遊郭」の資料準備を始め、書架より浮世絵展目録引き出しゴミを吸う。やや風邪気味。

31日 日本学生野球協会審査室会議。球春近し。トランプ大統領移民政策に腹立ち抑えられず。Facebookのアメリカの仲間からも批判の声届く。

 
2017年2月1日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)




2017年 1月16日

昨年、11月23日、佐藤泰正先生没後1年の追悼記念会が下関で行われた際、先生の若き日の詩集『夜の樹』を見せていただいた。
昭和26(1951)年に非売品として、頒布されたものだ。先生が、梅光女学院に着任し、下関教会で受洗されたのは、戦後すぐの1945年、同中学の部長になったのは、1950年である。

京夫人の挿画

この詩集は、今後の下関での生活に本腰を入れて取り組まれようとした30代前半のものだ。早稲田の同人雑誌で一緒だった北条誠の跋文では、この詩集が、戦場で逝った人への鎮魂でもあることも想像される。
先生はあとがきで、
「冷く、透きとほつた大気のうちに、その枝を細く、鋭く、さしのべてゐる冬の梢・・・何かを感ずるやうに、祈るやうに、そして、何かをしずかに堪へてゐるやうに・・・私の詩もまた、そのやうに、透明な、純粋な詩の気圏に、より深く、より鋭く迫る触手でありたい・・・」と記している。
「挿画・装飾」は、京夫人だ。思い出の共作と云ってもいい。
神と題するこんな詩が載っている。


ときたま つめたい風が きては
散り残つた葉を 撒きちらして いつた
木洩れ日の 明るい 午前の林・・・・
枝々は しづかにその腕を拱(く)みあはせた・・・・・・

作者は林の間を散歩でもしているのであろう。散り残した葉を冷たい風が撒き散らす。
終戦間近に散っていった若い魂への嘆きであろうか。訪れる午後の寒さに向かおうとしているのであろうか。戦後への思いであろうか。
木枯らしの予感がする。葉を奪われた孤独の枝々は、音もなく、静かにその腕を拱みあわす。小春日和から木枯らしへ。

この詩には、静から動へ、そして静謐な対峙がある。
作者はこの詩に「神」と題した。
冷たい風の動きを神と呼んだのであろうか。そうではあるまい。寂しい裸木が腕を拱みあう。その木のもとの奇跡的な共同的営為を神と呼んだのである。枝々に分かれていても一木である。

作者は、「組み合う」ではなく、「拱みあう」という表現を使いたかった。その意志は明確だ。何もしないでいることを手を拱(こまね)くなどと使われることが多いが、「拱」は、両手を胸元で組み合わせるのが原義である。ここは原義に近い。拱門などという場合には、アーチ型の門を云う。神への狭き門を、裸木が組み立てているのかもしれない。自らあとがきで記しているように、ここにあるのは、純粋な、透明な祈りである。私は、先生の祈りの「気圏」に誘い込まれ抱かれるような思いがする。
そんな勝手な解釈をあれこれ考えた。

佐藤泰正は、文学評論家でもなく、文学史家でもなく、誤解を恐れずにあえて言えば、文学研究者でもなく、詩人であった。
「渡辺君。私の詩に勝手な解釈して、少し思い込みが激しいよ」
そんな先生の声が聞こえる。
先生が亡くなったからできる私の解釈である。先生がお元気であったら、この詩について書こうなどとは思いもよらないであろう。人が亡くなり何かを残すということはこんなことなのかもしれないと思った。先生が亡くなったことは寂しい、大きな穴があいたと思う人もいるであろう。空虚な穴だという人もいるであろう。しかし、私はそうは思いたくない。
空虚な思いに引きずられていては、先生の死を迎えることにはならないのだ。

先生の詩は、八木重吉に似ていると思った。しかしどこか違う。重吉にある哀しみが、先生の詩にはないような気がする。若くして死んだ重吉の詩には明るさに忍び寄るような絶望が漂っている。しかし先生のこの詩には、希望がある。信頼がある。たぶん先生はそのことを自分で気がついていたのであろう。やさしさが詩人を成長させることが難しいことを。詩魂は教育者を育てたのだ。

私は三十代の七年間を梅光でお世話になった。酒を飲みすぎ先生の前でうなだれ始末書も書いた。先生の言葉が忘れられない。
「誰のために教えているんですか。学校でも、もちろん国のためでもありません。一人一人の学生のためですよ。神様のお召しによって働くのですよ。」

先生の言葉が、今ようやくわかりかけてきた。いかなる宗教の下でも、どんな国家に生まれようとも、学校教育は機会均等であるべきだ。だから私は、思想、主義、信条によらずいかなる所でも教えに行かねばならない。
教育の根源は、個人の尊厳のためにある。今年も先生の年賀状は来ない。「とにかく研究だけは続けなさいよ。」と先生の声が聞こえる。

以上は、発刊予定の梅光大学の『日本文学研究52号』への追悼寄稿原稿をもとにしたものです。

2017年1月15日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

 




2017年 1月1日

涵之如海 養之如春
之を涵す海の如し、之を養う春の如し。

新潟の会津八一の記念館を訪れた際にこの言葉を知った。八一はこの言葉を好み額にしていた。
後漢の班固の一文(『漢書』巻一)である。
涵は、ものをひたすの意。
之の意味は漠としている。人生などと置き換えても、教育などと置き換えてもいいかもしれない。
之に如何なる言葉をあてはめてもいいであろう。

私は、「之」に「老」をあててみた。
若い時は、荒波にのまれるようなことがある。海原で苦しみもがくこともある。だが、それが滋養となって今の「老」があると思いたい。
大海にひたりながら時を待つこともある。寛容の精神。涵養の心構えと云ってもいい。
老いは、秋に喩えられることが多いような気がするが、春を待つ老いがあってもいい。
老いてもなおゆったりと成長を促すような春の陽光を待ちたいものだ。

「養之如春」は、井上靖の座右の銘であった。
エッセイで「春の光が万物を育てるように、凡そ人生の事柄というものは気長にのんびりやるべきである。一朝一夕にそれを育て上げる態度をとるべきではない。愛情を育てるにも、子供を養育するにも、病気を直すにも仕事をするにも、宜しく春の光が万物を育てるが如くすべきである。」と記している。

含綬鳥

今年の書初めには、瑞鳥としてよく知られる正倉院文様の「含綬鳥」(がんじゅちょう)を写し、画賛にこの言葉を書くつもりだった。
老春にハッピーバード。我ながら妙案だと思った。

奈良の古梅園では、初めてふれた龍涎香(クジラの糞、腸内の結石)に興奮し、身の程知らずの墨も買った。帰りの新幹線では、独り蘊蓄にすっかり酔いがまわる。赤間硯を下関の堀尾さんに頼もう。広島土産の熊野筆も引き出しの隅にあるはずだ。紙も・・。
ところが、家に帰ると、この墨がない。又どこかに置き忘れたのだ。
30年ぶりの書初めへの思いもすっかり薄れ、元の自分に戻った。

旧年は、カメラ・パスポート・財布などなど、物忘れをして人に迷惑をかけた。
今年こそは、物忘れをしないようにしたいものだが、年を取ればますます物忘れがひどくなるだろう。しかし、それもままよ。角打ちの一杯に微醺を楽しみ、大切な事が何かを忘れずに養老の春を迎えよう。ゆったりと。
旧年中はいろいろお世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2017年1月1日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)




2016年 12月17日

12月18日国立劇場で「仮名手本忠臣蔵」の観劇会。参加者は、リビングアカデミーの一般参加者を含めて58人。
観劇会の2週間ほど前には、教室で「忠臣蔵」の予習、講義。この時の参加者も、50名を越えた。

参加者が多いことは、もちろん、企画者として嬉しいことなのですが、ちょっと複雑な気持ちがあります。
「忠臣蔵」は、私の中で何だか妙についていけないようなわだかまりが残ってしまう演目だからです。

「忠臣蔵」のメインテーマは復讐劇です。主君の仇を討つという忠義の物語です。敵を討つという行為の中で暴力が是認されているテーマです。
<ここには日本人の心がある>などと聞いたら、背筋が凍るような嫌悪を私は感じます。
それでもなお「忠臣蔵」を見に行きましょうと誘ったのです。

主君浅野内匠頭長矩(ながのり)の江戸城における吉良上野介義央(よしひさ)傷害事件(1701年4月)により断絶された赤穂藩の浪人たちが、被害者であり事件当事者である吉良義央を集団で殺害するというテロ行為にも等しい不法行動「赤穂事件」が起きたのは、1702年12月14日です。

戦後70年を経た今の東京より、その当時の江戸は泰平気分だったに違いありません。何しろ動物虐待をすれば牢屋に即刻放り込まれるといった5代将軍綱吉時代だったのです。戦争なんて、100年近くも聞いたことも見たこともないのです。

そんな時にこのテロ事件は起きたのです。
そして多くの犠牲者が生まれました。事件への怒りよりも、多くの犠牲者への同情が波紋を呼んだのです。

愚かな主君の衝動的行為によって生活を奪われ、テロに走らざるを得なかったキャプテン大石内蔵助にも、その家族にも。仇討チームに参加した人にも、参加しなかった者にも。悪人のごとく仕立てられた人たちにも悲しみは広がったのです。
それらの人物を多様に描くことによって、演劇「忠臣蔵」が生まれたのです。人間を見る文学力がここにはあります。

もちろん、観客以上に、役者はそのことを知っているのです。
今回上演の九段目「山科閑居」で加古川本蔵を演じる松本幸四郎は、11月26日の毎日新聞夕刊で、「忠義の為に命は捨てないが、子供のためには捨てる。封建時代によくこんなことを考えたと思います。そこに主題を絞ってつとめます」と。

加古川本蔵は、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で刃傷に及んだ時に阻止した多胡外記がモデルとされる人物。
芝居では悪役。本蔵は虚無僧姿尺八を引きながら登場します。
本蔵の娘小浪は、大石の息子主税と婚約中。敵同士の親を持つ恋仲です。仇討に行く前に、つまり命を捨てに行く前に、主税と小浪を添わせ、自分の命と引き換えに主税に吉良邸の絵図面を渡すという場面。主税に討たれる直前の台詞です。

何よりも大切なのは子供なのだ。仲間は宝かもしれない、裏切ることは出来ない、しかし子供はわが命なのだ。命のために命を捨てる。

日常を一気に破滅し、忠義という美名が時代の波に押されて悲劇を生む。その波にあらがうように人は小さな幸せを望みます。それは時代を超えます。
忠義に愛国心を求め、悲劇を仇討の勝利と呼ぶような観客が江戸時代以来のロングラン「忠臣蔵」を支えているのではありません。
折り重なる悲劇の人生を『仮名手本忠臣蔵』は語り継いだのです。
私は団結の生む悲劇をもっとも嫌います。加古川本蔵の尺八にそれを聞いてほしいのです。

吉良上野介義央像

名古屋での講演の後、西尾市の吉良吉田に駆け足で寄った。

この地で吉良上野介義央の評判はまことに絶賛。新田開発・治水工事に采配を振るった名君です。
古代から豊かな所だったのでしょう。古墳の側の資料館の入り口に、領内を赤馬に乗って視察する吉良上野介義央の像がありました。

知多湾の夕暮れでワンカップを飲み、討ち入り後断絶させられ、諏訪に流された、吉良義央の息子(養子)、義周(よしちか)の悲惨な行く末のことを考えていたら、隣町の一色町に行く時間が無くなった。一色町は、うなぎ出荷量日本一。うなぎの味も絶品だそうだ。無念に残念が重なった。

2016年12月17日  渡辺憲司 (自由学園最高学部長)




2016年 12月15日

女子部(中高生)で、クリスマスを前に話をした。
クリスマスにふさわしい歌を探し当てたような気がして、JUJUの「やさしさで溢れるように」を礼拝で流した。
もちろんラブソングなのだが、私にとって「あなた」と呼びかけた対象は、祈りだ。

「やさしさで溢れるように」  作詞 : Shinquo Ogura ・ Seiji Kameda

目が覚めればいつも 変わらない景色の中にいて
大切なことさえ 見えなくなってしまうよ

生きてる意味も その喜びも
あなたが教えてくれたことで
「大丈夫かも」って言える気がするよ
今すぐ逢いたい その笑顔に

あなたを包むすべてが やさしさで溢れるように
わたしは強く迷わず あなたを愛し続けるよ
どんなときも そばにいるよ

当たり前の事は いつでも忘れ去られがちで
息継ぎも忘れて 時間だけを食べてゆく

花の名前も 空の広さも
あなたが教えてくれたことで
愛と呼べるもの 分かった気がする

変わらない日常におぼれる自分。大切なものが見えなくなってしまうのではないかと云う不安。息継ぎを忘れて時間を食べている自分。
そんな自分を「あなたを包むすべてが  やさしさで溢れるように」と歌う。

「あなたを包むすべて」と云う言葉が私の琴線を揺らしたのだ。
「包む」という表現には、宗教的な抱擁が立ちあがってくる。
漢字の「包」は、胎児の「己」を抱える形に似ている象形だ。
袋の中に投げ入れるのではない。愛するものを包むのだ。

最高学部(大学部)の女子2年生の奈良・京都の寺々を巡る研修旅行に同行した。
冬の青空に毅然として立つ塔、歴史を重ねた甍、そして仏の微笑に真摯に向かい合う若き諸君との旅は、至福の時であった。
長く同じプログラムで続いている大和路の旅は、私には市民として自負すべき、civility(礼儀正しさ、丁寧さ)を学ぶ旅であると思えた。
そして祈りを根源的に考える旅でもあった。

多くの仏たちとの出会いの中で、私が「包む」という言葉を再度思い出したのは、この旅での興福寺の「阿修羅」像との新たな出会いがあったからだ。
(興福寺 国宝「阿修羅像」 http://www.kohfukuji.com/property/cultural/001.html

阿修羅の三組の手は、一つは合掌し、一つは天空を支えるようなポーズで日・月の宝物を持ち、そしてもう一つの手は、弓に矢をつがいでいる。そう信じてきた。何故なら、「阿修羅」は攻撃の仏だからだ。怒りの表情、敵に向かう「アスラ」の表情なのだと考えてきた。
ところが、一説には、支えているのは世の弱者に対してであり、自分の体に向かって包むように広げている手と腕は、攻撃のものではなく、それは、あらゆる人を包み込むのだ。手をもって抱きしめているのだというのだ。

少年阿修羅の怒り、祈り、支援そして抱擁。
少年は何処を見ているのであろう。

堀辰雄は、昭和16年10月奈良を訪ねた。
「ちょうど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王の前に立ち止まっていた。なんというういういしい、しかも切ない目(まな)ざしだろう。こういう目ざしをして、何をみつめよとわれわれに示しているのだろう。」

堀が大和路を訪れた2箇月後、真珠湾攻撃で日本は戦争への道を本格的に歩み始めた。
堀辰雄そして阿修羅のまなざしの先に見えていたのは滅びであった。

今、阿修羅は戦いの終わりを見つめているように思えてならない。深い安らぎの在り処を探しているのだろうか。
阿修羅のまなざしは切ない。遠くに離れた故郷を思うような切なさだ。母性をから解き放されるような切なさだが、そこに誰もが頼る、寄り添うことの出来る祈りがある。横溢するやさしさに救済を求める。「あなたを包むすべてが  やさしさで溢れるように」

私はあなたに包まれているのだ。
阿修羅のまなざしのせつなさの向こうに少女たちの祈りがあった。

歌人岡野弘彦の歌が浮かぶ。
「うなじ清き少女ときたり仰ぐなり阿修羅の像の若きまなざし」(「冬の家族」)
折口信夫門下の岡野弘彦は、自由学園に深くかかわり、この旅にも同行した。その折の歌である。

2016年12月15日  渡辺憲司 (自由学園最高学部長)




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