第17回 本橋成一写真展『在り処』/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第17回 本橋成一写真展『在り処』/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第17回 本橋成一写真展『在り処』

2016年2月15日

本橋成一写真展本橋成一氏の写真展に出かけた。
その日、春一番が吹いた。
三島のクレマチスの丘は、濃霧であった。
会場に入って飛び込んできたのは、子供たちの笑顔である。

1963年、昭和38年撮影の雄冬の写真があった。
私が、利尻島、天売島、焼尻島、留萌(るもい)そして増毛(ましけ)から雄冬(おふゆ)に行ったのは、昭和39年、大学一年の夏であった。
本橋氏は、自由学園最高学部を出た23歳。
雄冬は、当時、増毛から船でしか行くことが出来なかった。
雄冬で電話回線が自動化したのは、1978年。増毛から、石狩方面へトンネルが開通したのは1981年(開通直後の事故で、再通したのは、84年)。
秘岬足下の集落であった。
明治44年生まれの母は、雄冬の近くの集落で少女時代を送った。

1965年、福岡県筑豊炭鉱、鞍手での中学生の写真。詰襟に白い歯を見せた笑顔。
当時炭鉱は閉山が相次ぎ、一時の好況から転げ落ちるように疲弊していた。
私は、大学時代、キリスト教青年会(学生YMCA)に所属していた。会の活動の中の一つが、筑豊の子供たちに学習会を開くボランティアだった。
私はその時、筑豊に行かなかった。引きずってきたものが写真の上で立ち上がる。
友とトリスウイスキーをあけ、「資本論」を語ったことを思い出す。
50年も前のことだ。

そして、1996年、ベラルーシ共和国のドゥヂチ村の少女の写真。村は、1986年4月のチェルノブイリ原発事故で汚染された。原発事故から、今年は30年である。本橋監督の記録映画「ナージャの村」のシーンを思い出した。
雪の坂をそりで転げ落ちたナージャの笑い声。
待ちに待ったしたたる緑。

「2011年3月、東日本大震災で原子力発電所が爆発事故を起こしました。放射能で大地は汚染され、たくさんの人たちがふるさとを失いました。そこであらためて分かったことは、地球上のすべての生きものは「核」とは共存できないということでした。ブシジチェ村のように、自然とともに生きている人たちは、いのちを大切にする知恵を持っていました。それはいのちあるものみんなが、持っているものなのです。」(「世界じゅうの子どもたちへ」『アレクセイと泉のはなし』本橋成一)

帰路、強い風も雨もおさまった。
バスの行く手、曇り空にかすかに駿河湾が見えた。
福島の海を思う。

「な なつかしい請戸の海ですな遊び」
請戸(うけど)は、全国有数のヒラメの水揚げ高を誇った海。

福島第一原発事故で、全町避難が続く、浪江、津島の両小学校の児童が作った、いろはかるた「なみえっ子カルタ」である。両小学校は、原発事故後、福島二本松の仮校舎で再開。事故前、両校で600名を越した児童数は、現在、15名ほどになったそうだ。
「え えがおがね たくさんさくよ浪江町」
これも「なみえっ子カルタ」。

悲しみが生む笑顔とは何だろう。
声を出す勇気。踏み出す力。その「在り処」だ。

2016年2月14日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

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