第19回 大坪秀二先生お別れ会/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第19回 大坪秀二先生お別れ会/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第19回 大坪秀二先生お別れ会

2016年2月22日

昨年11月15日、武蔵高等学校元校長の大坪秀二先生が逝去され、先生のお別れ会が、2月20日(土曜日)武蔵学園大講堂で行われた。
私が武蔵にいたのは、昭和47年(1972年)4月から53年3月までである。当時、校長は正田建次郎先生。大坪先生は、教頭であった。正田先生は、時々教員会議に出席されたり、山中湖のテニス部の合宿に激励にいらっしゃったりしたが、実質的には、大坪先生が、学校全体を見ていた。
新任面接も大坪先生。私は26歳、先生は40代後半であった。
同じ時期に着任したのは、亡くなった社会科の岡俊夫先生である。
子供も同じ歳頃で、帰りが所沢方向だったこともあり、岡ちゃんとは、よく連んで酒を飲み、遊んだ。
大学紛争も尾を引いていた。岡ちゃんは、バリバリのマルクス主義、移転問題で揺れた東京教育大の闘士だった。私は、情緒的日和見主義の残滓。カウンターの辣韭(らっきょう)を二人で投げ合い店の出入りを差し止めになったこともあった。

二人が教頭に呼ばれたのが何時であったかは忘れた。着任三年後くらいであろう。ほとんど毎日深酒をして学校に行った。8時20分からの授業に遅れることも多くあった。
呼ばれた瞬間、これはお説教に違いない。何か言われると思った。
教師控室だった。いつもなら、碁や将棋を指しているところなのだが、その時は誰もいなかった。
軽やかな笑顔だった。
柔らかく、先生は短く云った。
「二人とも危なっかしいぞ。」
それだけだった。
その日の帰りも岡ちゃんと飲んだ。
「今日の教頭、皮肉かな」と私。
その時、岡ちゃん、
「皮と肉の間を切られたんだよ」
そして、その日は黙々と飲んだ。40年も前のことだ。
岡ちゃんも亡くなった。
「危なっかしいぞ!」
この時の大坪先生の一言は、胸に残った。
その後も、反省することなく、危なっかしい教員生活が続いた。あの言葉で、ギリギリ踏み止まってここまで来たような気もする。
放任主義者でもない。寛容な態度とも違う。もちろん、厳格主義とも、管理運営者とも違う。
「自ら調べ、自ら考える」
これが、武蔵での教員時代畳み込まれた、自立の精神だった。
私が出会ったいかなる学者よりも最強の文書読みだった国語科の佐藤先生にも鍛えられた。松井先生の指導のもと、今も国語辞典の最高峰である「日本国語大辞典」(小学館)が産声をあげたのも国語科の研究室である。
酒と遊びと知的緊張の中で私は鍛えられた。

6年間で、私は武蔵を去り、下関の女子短大に転じた。
辞めるかどうか、少し悩んだ。
「家まで所沢に建てて・・どうして・・武蔵はいいよ・・奥さんも出版社の仕事できなくなるよ・・」
周囲の声はそんな風に聞こえた。
大坪先生だけは違った。きっぱりしていた。
「よかったね。好きな道はいいよ。」
あっけない会話だった。何だか自分を引き留めてくれるかもしれないというようなスケベ心があった。それを完全に払拭された。
その時の先生の目は、教師ではなかった。厳しい物理学者であった。

送別会は、国語科の研究室のソファでビール。畳のあった社会科の研究室で落ち着き、そして江古田に繰り出した。
一軒目のすし屋までは、先生と一緒だった。教師は互いに譲らぬ論争に酔った。
大坪先生の話は、緻密で大胆であった。それは、武蔵の知的自由の守護者であった。
先生は理想の教育を追った。
いかなる時代にも武蔵は武蔵らしくあらねばならないと教えた。
追憶の写真と音声が、大講堂のスクリーンに浮かび上がっては消えて行く。
私の武蔵、最後の年の卒業式の大坪先生の祝辞が流れる。
過剰な放埓な日々に、毅然たる武蔵の自由への祈念が重なった。
暦の雨水とは程遠い、春を待つ冷たい雨の降る二月の午後であった。

2016年2月21日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

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