第24回 卒業礼拝「弱さ以外には誇るつもりはありません。」(『新約聖書』)/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第24回 卒業礼拝「弱さ以外には誇るつもりはありません。」(『新約聖書』)/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第24回 卒業礼拝「弱さ以外には誇るつもりはありません。」(『新約聖書』)

2016年3月20日

ニューヨーク市立大学附属病院のリハビリセンターの壁に無名戦士の詩が書かれている。インターネットなどでも紹介され、又中日新聞などでも評判になったから、周知のものであるに違いない。翻訳は色々あるようだ。

「大きなことを成し遂げるために、
強い力を与えてほしいと、神に求めたのに、
  謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった。
より偉大なことができるようにと、健康を求めたのに、
  より良きことができるようにと、病弱を与えられた。
幸せになろうとして、富を求めたのに、
  賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の称賛を得ようとして、力と成功を求めたのに、
  得意にならないようにと、失敗を授かった。(後略)」

詩を知ったのは、もう6年ほど前である。コロンビア大学での講義の折、大国アメリカの正義、平和主義などが話題になった時であった。戦争から帰った若者が病み書いたものだとも聞いた。
東日本大震災の前の年の秋であった。震災の後、原発事故に関連させながらNHKの『ラジオ深夜便』でも話したことがある。
今日本は、アメリカの後を追って強くなろうとしているのではないか。富国強兵などと云ったら大げさかもしれないが、そんな波が押し寄せているようだ。こんな思いが時々よぎるせいかもしれない。この壁書(落書き?)のことを、この頃又よく思い出す。
それで、学園の卒業生に向けての夕べの礼拝でもこの話をすることにした。

この話とともに思い起こすのは、『新約聖書』コリントの信徒への手紙二・12章の部分である。楽園にまで引き上げられた人、つまり強き人、成功者といってもいいでしょう。その人を作者は誇りだと云う。
「誇らずにはいられない。」と語り、そして、自分自身のことを語ります。

「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。(中略)主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

現在のギリシャの南の海岸地方であるコリントでは、イエスの福音共同体が、混迷状況にあったと云う。その混乱の中で苦労する仲間たちへのメッセージであるそうだ。手紙の主であるパウロ自身の苦悩を示しているとも云う。

弱さゆえに強くなる。
弱さをキリストからの賜物であると考えることなど到底出来ない。
行く手を前に肩を落とす友人にそんなことが云えるであろうか。
単なる自己犠牲を示しているのではないか。悲劇の肯定ではないか。
自分にあてはめて、自問自答してみるが、この言葉を鵜呑みには出来ない。

まして、輝かしい卒業の時に、「弱さ以外には誇るつもりはありません。」などと語り継ぐことが、祝意の祈りになりうるのだろうか。
私は、今目の前にいる諸君の多くが、希望に満ちて旅立ちを迎えようとしていると信じる。
しかし、この中には、弱さに打ちひしがれている人がいるかもしれない。私は、弱い人に向かって今このメッセージを発する。
信仰の原点は、自己の弱さを認めることである。自信満々のものに神は見えない。自分の弱さを知ったときに神と出会うのではないか。ならば、出会いへの感謝とは、自分の弱さと表裏のものではないのか。
邂逅への謝念とは、共にその弱さを共有することから生まれるのだ。
そして、悲しみを共有するのが仲間であるという認識は、キリスト教を根本におく私たちの最も基底にあることだと認識してほしい。
さらにそれは、祈りと云う行為を共有するあらゆる宗教の共通の認識であるはずだ。
人生において、得ることよりも失うことのほうが多い。満足は日ごとに消えていくが、喪失は忘れられないといってもいい。祈りにおける復活は、喪失感である。
祈りは、自分の弱さを知ることによって発せられる。

聖書は次の13章で、次のように語る。
「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」

聖書の語る言葉の意味しているのは、弱さを賜物と受け止めることである。

キリストは大いなる弱き者。

キリストの教えに導かれたわたしたちも弱き者だ。
弱さゆえに強くなれる、そんな思いに素直に頷くことは出来ない。しかし、いつかそう思う、思わないではいられない日がおとずれるかもしれない。その日のために、無名戦士の書き残した詩と神のみ言葉を忘れないでほしい。
共に弱きものよ。前途に幸あれと祈ります。

2016年3月20日  渡辺憲司(自由学園最高学部長)
ブログ「時に海を見よ その後」

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