第33回 梅雨の晴れ間は、五月晴れ/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第33回 梅雨の晴れ間は、五月晴れ/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第33回 梅雨の晴れ間は、五月晴れ

2016年6月7日

入梅だと聞いて思い出しました。
「梅雨の晴れ間は、五月晴れ」
このように書くと、なんだか落ち着きませんが、これは正しい用法なのです。

『広辞苑』には次のようにあります。
一 さみだれの晴れ間。梅雨の晴れ間
二 五月の空の晴れわたること。また、その晴れ渡った空。

一の解釈より、二の解釈の方が一般化したようです。これは誤用の定着化です。

気象学の根本順吉氏に『江戸晴雨孜』(アドファイブ出版局刊・昭和55年)という縦長の瀟洒な一冊があります。気象学的考証から江戸時代の日記を丹念に渉猟し、現在の気象の抱える問題点を指摘したユニークな労作です。
根本氏は、「さつき晴れの誤用は戦後に定着したものだ」とし、昭和39年のNHK編の『気象用語集』をあげ、NHKでは、さつき晴れは、放送用語として注意すべきで使わないようにという指摘があると述べています。2002年回答のNHKのホームページでも、誤用としています。

さつきぞら(五月空)の用法などは、もっとはっきりしているかもしれません。『日本国語大辞典』(小学館)を引くと、一に、「五月雨の頃の曇りがちな空。梅雨空」とあり、二に、「五月のさわやかに晴れわたった空。五月晴れ」とあります。(「さわやか」は、秋の季語ですから、この語釈は、まずいような気がしますが・・・)

浄瑠璃には、こんな表現があります。
「無常にも泣く、恋にも泣く、袂の時雨、袖の雨、空に知られぬ五月空やと、皆人哀れを催ふせり」(『義経新高館』三)

「五月空」を晴れた空などと解釈したら大変です。哀れとは、結びつかないでしょう。
誤解・誤読に毎日のように自己反省し、自己嫌悪に陥っている私としては、新暦・旧暦の混乱に、目鯨をたてる気は毛頭ありません。しかし、誤用であると断定され、それも、古典語と現代語の違いといったものではなく、戦後の使われ方の誤用であるとするならば、少なくとも誤用であるという認識をもって、使うべき言葉のようです。

私は、日本語のなげかわしい乱れなどといったことを、ここに書こうとしているのではありません。
言葉は生き物ですから、成長したり、変容したりします。変容を嘆くのは悪しき保守的教養主義です。
五月晴れと五月空の誤用の定着化で気がかりなのは、季節感へのマヒです。温暖化に無神経になったり、時ならぬ豪雨が環境破壊とともに進行していることにだんだん無神経になっている自分を感じるからです。

言葉と共に季節と向き合う。
環境文学を考える第一歩です。

2016年6月6日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

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