第34回 刀・吉原・新渡戸稲造/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第34回 刀・吉原・新渡戸稲造/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第34回 刀・吉原・新渡戸稲造

2016年6月15日

江戸時代、吉原では、武士が刀を持って廓に入ることが禁止されていました。持ってきた刀は入り口の茶屋に預けるのがルールです。多くの廓もそうでした。

刀は武士の魂であるとも言われています。廓は喧嘩の多い危険なところでもあります。何故そんな大切なものを自分の手から放したのでしょうか。

それは、武士であることが、吉原では、誇りにならなかったからです。権力を振りかざすことは、もっとも野暮(やぼ)だったのです。野暮というのは、心が洗練されていないことです。野暮のことを瓦智(がち)ともいいます。瓦のように固くて柔軟性がないという意味です。野暮は女性から嫌われます。

「篭釣瓶」(かごつるべ)などは、客が隠し持っていた刀を振り回して暴れた芝居ですが、これは愚の骨頂、男は田舎大尽、極め付きの野暮です。

士農工商の身分制度を強調するのは、行き過ぎの解釈だとも思いますが、江戸時代は封建社会ですから、厳しい身分制度があったことは事実です。町を歩けば、すれ違う人は互いに身分差を意識しました。百姓は百姓らしい風采。職人は小ざっぱり。商人は腰を低くして道を武士に譲りました。

金銭のみが物を云う奇形的土壌ですが、世間の階級社会と異なった世界が遊郭にありました。遊里文化は、遊郭という限定的な場所によって作られたものですが、<遊び>は、階級を越えた文化です。

遊女はあこがれの対象にもなりました。最下層に位置し悲しい人生を歩み、被差別者であった遊女のファッションが、娘達を虜にしたこともありました。
江戸時代、お姫様の好みが庶民に流行するなどと云うことは聞いたことがありません。大金持ちのお嬢さんの趣味が世間に広まった話も聞きません。

刀を持っているなどと云うことは、男にとって洒落ていないのです。

しゃれ、というのは、水にさらす、日にさらすなどと同じ意味です。不要なもの、又、目立つようなものは持たない、派手なものを持たない、新しいものは持たないというのが、洒落た男なのです。

男は派手な格好をしてはいけないのです。あくまで地味で粋(いき)です。着物の色も黒か茶です。黄色、赤などは考えられません。少し派手な模様は裏地です。

日本の文化では、武器を持つことを恥ずかしいと感じたのです。鉄砲を作る高い先進的技術を持ちながらも、江戸時代には、鉄砲は武器として使われることはありませんでした。飛び道具を使うのは卑怯者でした。

火縄銃が携帯に不便だったこともあるでしょう。刀狩の徹底もあったでしょうが、300年という世界史的に見ても異例の長さを平和に暮らしていた江戸時代の人々にとって、武器は不要だったのです。

刀を持つことは野暮であり、鉄砲を持つことは卑怯であったのです。刀はアクセサリーでした。一度も使われていない刀が、美しい名刀として珍重化され、美術品となったのです。

刀を抜かず相手を屈服させることが最高の武士道である。
そう記しているのは、世界でもっと多く日本語訳されている新渡戸稲造の「武士道」です。

吉原で刀を持たないことは、男のダンディズムでもあります。吉原は、酸鼻(さんぴ)きわまる女性の歴史です。悲惨な犠牲の上に築かれた歴史は忘れてはなりません。そして、吉原に武器を嫌う日本文化の感性が息づいていたことも記憶されていいでしょう。

新渡戸稲造が、太平洋戦争回避の国際平和に貢献したことは云うまでもありません。
彼ほど粋な男はいません。

日本人は武器を持たぬことを誇りとした。そのことを、今こそ忘れてはなりません。

2016年6月15日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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