第91回 伊豆の星座ーロック座追憶/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第91回 伊豆の星座ーロック座追憶/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第91回 伊豆の星座ーロック座追憶

2018年2月15日

故郷、函館時代の旧友を久しぶりに訪ねた。
小学生のころは、校内の相撲大会、彼は右四つで下手投げ、私は左四つで押しが得意だった。中学時代は軟式庭球部前衛と後衛が一緒、高校は別の高校だったが受験は一緒だった。彼は、ストレートでW大学商学部に入学し、私は浪人してR大学法学部に入った。

彼との一番の思い出は、一緒に浅草のロック座でアルバイトもしたことだ。
私は照明係でピンスポットを担当(もちろん見習い)していた。彼は舞台のそでで踊り子さんの世話や舞台の小道具係だった。

当時、ピンスポットは、アークピンと呼ばれていた。内部のプラスとマイナスの電極にアーク棒が刺さっていて、これを微妙に接触して発光源とするものだ。ブーと云う音と共に光が出て、煙も上がる。本番中にアーク棒がどんどん短くなる。炎を強く燃やすと光は強くなる。00などといった白色の光で陰影を長く引きながらスポットを浴びせるのだ。

気に入った踊り子だと、強い光を当てたくなるが、生意気なうるさい踊り子だと光も弱くなる。燃えすぎると、芯がなくなり大慌てになる。いつもは何もしないで、壊れたラジオをいじくりまわしていた本物の照明係が、点灯している熱いアーク棒を取り出して新品と交換する。それは見事な職人技だった。

「コラ、早くピンを炊くんだよ。」とよく怒鳴られた。時には踊り子さんにもやさしく声をかけられた。走り使いで、牛乳を買ってくると、最後の一口を残して私に渡してくれる踊り子さんがいた。私がべっとりと口紅のついた牛乳瓶を握りながら、飲むのを少しためらっていると、彼女から「ピンを炊く煙で、胸をやられるよ。照明は早くやめた方がいい」と云われた。現に、職人技の先輩は、私が入って間もなく結核で入院した。「ピン、後釜やるか」の声にも動揺した。「月替わりの通しのリハーサルを見て気の付いたことがあったら云ってみな」などと、部長の高崎さん(と云ったと思う)から声のかかったこともあった。文芸部に移ることが出来たら、そのままロック座にいたかもしれない。菊池寛の「父帰る」が、「乳変える」阿部知二の「冬の宿」が「炬燵の宿」といったパロディ劇が、ショウの合間に演じられた。

Aと、海を見ながらロック座の話をした。
「誘ったのはそっちだったよな。馬場で学生援護会のチラシを見たとかで・・」
「そうかなあ、乗ったのはケンジの方だよな」
「踊り子さんの名前は思い出せないな」
「ベテランの小松さん知ってるか。函館の出身だって云ってたな・・」
「コントは面白かったな。」
「深見大三郎・・。たしか北海道出身でね。ビートたけしの師匠だろう」
「切られ役で出たろう。山型、山型って首をかしげて斬られてね。ケンジがどじして、頭をしこたま殴られた時なあ・・・。私は北海道にはまいったよな。あれは受けたな。」
「フランス座の方がいっぱいいい役者がいたよね」
「後のレオナルド熊ね。面白かったなあ。エレベーターで上まで3回笑わせるとか云ってたな。」
「熊も北海道だったよな。」
「佐山俊二が来た時がビビったな。怖かったな。東八郎とか渥美清の花束飾ったな・・佐山も北海道だよ。」
「野上のよた公役で舞台に出たよな」
「伴淳はまり役の上野公園のホモだろう」
「コントに酔っ払いがからんでな。」
「呼び込みもやったよ。花屋敷のタダ券もらったよな。」
「バカだなあ。あれはモギリの子が俺に惚れたんだよ。」

50年以上の記憶は二人の間を交差しながら、とめどなく定かならずに続いた。

昭和40年初め、大学は、紛争の火種をくすぶらせながら、闘争への季節に入ろうとしていた。ストリップ小屋も大きく変化した。猥雑なショウが幕間のコントに変わり、卑猥な塊のような上方のストリップが土足でやって来て、浅草の笑いを奪った。

Aと南の海を見に行った。長崎、天草、熊本、鹿児島、屋久島でバイト代は消えた。
大学に戻って本気で授業に出席しようと思った矢先、不穏な休講が続き、私の漁るような気分の図書館通いが始まったのだ。

ロック座にはいいしれぬ甘美な人間臭さがあった。生き物のような文学的感性があった。義兄に親不孝になるぞと云われながら、文学部への転部を考え出したのもこの頃だった。

夕暮れが海と空の境界を黒く消しはじめた。
「孫は何人だ」とA。
「4人になったよ」と私。
伊豆の夜空に北を目指して星座が光っていた。
「ここはみかんの花咲く丘公園と呼ばれているんだ」とA。
「川田孝子だったな、正子だったかな」と私。
ミカンの花を知ったのは、故郷を離れてしばらくたってからだった。

 

2018年2月15日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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