第93回 秩父中津川、平賀源内居/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第93回 秩父中津川、平賀源内居/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第93回 秩父中津川、平賀源内居

2018年2月22日

秩父で講演の前日、平賀源内の旧居跡を訪ねた。
秩父鉄道の三峰口から、バスで約50分。終点の中津川の手前にある。
源内がこの地に滞在したのは、明和3年(1766)から同5年、及び明和7年から安永3年(1774)までの2回(異説あり)だとされている。この地の名主幸島家の一角に自ら設計した住居を建てたのである。

秩父は、源内と強いつながりがあった。
外に建てられた看板によれば、秩父市教育委員会の指定文化財になっているが、内部を見ることは出来ない。非公開である。
しかし、その設計を見るだけでも類まれな源内の才能は十分に推しはかることが出来る。
平成15年に、江戸東京博物館などで開催された平賀源内展の調査報告によると、欄間などには精巧な幾何学模様の組子、戸棚の引き戸の底板に金唐皮を使用するなど、実に凝った作りになっているようだ。

源内はこの地で幕府から採掘許可を得、金、銀、銅、鉄などの他、石綿を発見し、燃えない布『火浣布』を作り幕府へ献上した。
源内がエレキテルの復元に成功し喝采を浴びたのは、安永5年である。
この建物は、源内得意絶頂期の建造物と云ってもいい。(だいぶ建物は傷んでいるように外見からは想像された、早急に秩父市は早急に居宅の保護保全を考えるべきであろう)

源内はこの時期(安永3年)に、傑作『放屁論』初編を書いている。人気のあった両国の見世物の放屁芸人をかりて、停滞し動きに取れなくなった封建社会へ鋭い批判をしたのである。
私が武蔵高校の教員になって間もない頃だ。上から子どものおしめがぶら下がっている狭い部屋で、『放屁論』の多様な屁の種類に注をつけた。 河出書房新社刊行『日本の古典 江戸小説集』の仕事だ。慶応の池田弥三郎先生監修、紹介してくれたのは、前田愛先生だった。池田先生から銀座の天婦羅屋でご馳走になりながら前田先生と一緒に、仕事の話を聞いた。自分の名前が商業誌で活字になる・・。
有頂天だった自分を思い出す。武蔵の生徒との読書会で、源内の『 痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)』を取り上げたりした。私の放埓過ぎた時代だった。
「源内の戯作を研究しようと思っているんですが」と前田先生に話した。日本手ぬぐいで汗を拭きながら、返ってきたのは断定的忠告だった。
「源内は天才だ。戯作をやるなら、漢文読解をまずやれ。儒学者から入れ。」
山鹿素行研究を最初の論文にしたのは、それから3年くらい後だ。

源内居からの帰り、同行の妻にうながされて秩父往還道を歩いた。野仏の多いいい道だ。
栃本の関所跡までの登り道、麻生加番所を過ぎると真っ白な湖面が眼下に広がった。ダムをせき止めた秩父湖だ。広がった氷結の湖面の端にほんの少しだけ青い湖水が見えた。春が確実に近づいている。

 
2018年2月22日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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