世界に通用するテニス選手を育てたい

世界に通用する
テニス選手を育てたい

藤井 正之
Masashi FUJII

エフ・テニスプランニング代表

男子部 39 回生

2018年10月3日談

埼玉・上尾市にあるエフ・テニスプランニングのコートで。

テニスに夢中だった学園時代

 

テニスを始めたのは普通科(中学)1年の時。僕は幼児生活団から自由学園に通っていて、初等部の頃はサッカーをしていました。ところが、普通科のサッカーの練習は厳しくて挫折。テニスをやってみようかなとコートに行ったら、女子部もいるし、楽しそうだったんです。それからテニス部に移って、すぐに夢中になりました。

 

当時、自由学園のテニスはとても盛んで、後にプロになった選手と試合で互角に戦える人がたくさんいました。学校としては大会に出ていませんでしたが、中2の時には所属するクラブからダブルスで全国大会に出場。そうすると意識も変わります。なぜ自由学園は大会に出ないのか、なぜ中体連や高体連に入らないのかと、先生に直談判に行ったこともありました。結局学園の生活は忙しくてなかなか試合に出られないんですよね。

 

高等科でもインターハイには出られなかったけれど、狂ったようにテニスをしていました。朝5時起きでクラブの朝練に行き、原付バイクで登校してこっそり図書館裏から校内へ。先生たちには見て見ぬふりをしていただいたのかもしれません。

 

通っていた京王赤城テニススクールの赤城昭正さんは、日本のテニス選手育成の創成期を築いた人。ある時そこにアメリカで世界王者を何人も育てたニック・ボロテリーがやって来て「日本人を招待する」という。僕は学部1年でしたが真っ先に手を上げて、2人の仲間とニック・ボロテリーテニスアカデミーの日本人初の留学生として、1年ほど渡米しました。そのアカデミーは、現在錦織圭選手が所属しています。

ジュニアの指導に立つ藤井さん。夜間もテニスコートに球を打つ音が響いていた。

人間が好き、選手育成が好き

 当時の日本で行われていたのは、心をこめて球を打つ武道に近いテニス。でもアメリカでは、結構乱暴にパンッパンッと打つんです。「How do you do?」も通じなかった19歳の僕らは、テニスも生活も目からウロコのことばかり。必死で学んでフォームも大きく変わりました。

 

日本に戻ったばかりの時には、誰も僕らの打ったボールが返せなかったんですよ。「これはいける!」と思いましたが、日本人は器用だからしばらくするとみんな返せるようになっていました(笑)。その後のインカレではダブルスで出場してベスト16。そこで火がついて、やっぱりプロを目指そうと学園を辞めました。

 

23歳の頃、赤城さんが埼玉上尾にスクールを開くので「2週間だけ来てほしい」と言われて手伝いに。オープンのチラシまですべて手作りで立ち上げに関わり、2週間どころかずっと続けることになりました。

 

30歳で、赤字のテニスクラブを買い受けて独立。テニス仲間だった自由学園の卒業生と結婚し、小さな子どもも2人いたので必死で借金を返しました。丁度複数のスクールから運営を任されることになり、経験の少ない若手コーチを鍛えて、自分も日中は主婦たちに笑顔を振りまき、夜はジュニアをしごいて……。家に帰ったら倒れそうでしたが、おかげで経営は少しずつよくなりました。

 

赤城さんに呼ばれた時から、選手育成が好きでした。わが家に高校生の選手が下宿していたこともあります。学校に行く前に練習させて、朝ごはんを作って送り出す。男子部時代の僕はだらしなくて、「お前はダメだな」と言われながらみんなにお世話になっていましたが、テニスに関しては憑りつかれたようになった。根っから人が好きで、人の面倒を見たい。子どもたちを育てたいと思ったんです。

クラブの事務所には、歴史を感じさせるラケットが並んでいた。

テニスを通じて世界平和を

 現在、うちのクラブはコーチが5人。幼稚園児からグランドスラムを目指すプロ選手まで200人以上が在籍しています。僕が赤城さんから教わったのは、テニスは世界平和につながるということ。テニスは、ルールを守って意地悪の限りを尽くす。つまり人間観察のスポーツです。相手を分析し、戦略を考えて実行する。そして世界で愛される人間的にも素晴らしい選手を育てること。それが平和につながると、身を持って教えられました。

 

日本人は身長が低いので、大きい人にパワーは劣ります。200キロのサーブは打てなくても、それを返せるようになればいい。だから錦織は世界一のレシーバーと言われていますよね。これからは、日本人のプレースタイルを確立しなくてはなりません。そのためには、人間が好きで人間研究ができるコーチを育てること。選手育成は、家族のように長い付き合いになるので無責任なことはできませんから。

 

うちのクラブは空気感染を大事にしています。よい空気を作るのが僕の役目。大きい子は下の子の面倒をよく見ていますよ。下の子たちが大きくなったら、また小さい子を教えている。自由学園みたいでしょう?

 

僕の夢は「グランドスラムで日本酒を飲む」こと。世界に通用する選手を育てて、グランドスラムのファミリーボックスで観戦したいんです。

藤井正之(ふじい・まさし)

1960年生まれ。自由学園普通科時代からテニスに打ち込み、最高学部1年時に渡米。ニック・ボロテリーテニスアカデミーの日本人第1号留学生としてアメリカでの生活を体験。帰国後、プロを目指して自由学園を中退。その後はテニス指導者となり、30歳で埼玉県上尾市にエフ・テニスプランニングを設立。ジュニア選手の育成に心血を注ぐ。