批評とは作品に言葉を与え、生き直すこと

批評とは作品に言葉を与え、
生き直すこと

大久保 清朗
Kiyoaki OKUBO

映画批評家 山形大学人文社会科学部 准教授

男子部 57 回生

2019年3月9日談

『映画会』の開催が許される環境は幸せなことだった

思い出の「映画会」

 映画を見ていたのは親の影響が大きかったと思います。自由学園に入学した頃は個人、あるいは小規模チェーンのレンタルビデオの時代でした。店舗によって品ぞろえも異なるため、電車で遠征してビデオを借りに行ったりしていました。今ではインターネットで簡単に見られるようになりましたが、現在教えている山形大学の学生の中には、レンタルビデオやDVDですら映画を見たことがないという人もいます。とくに、自分が生まれる前の映画は、見ようと思わなければなかなか見る機会がありません。

 

その点、自由学園では多くの映画好きな上級生に恵まれていました。週末の夜に、寮生たちの楽しみのひとつだった「映画会」は思い出深いですね。時には1950年代~1960年代の映画が上映されることもありました。映画会の開催を許してもらえる環境とそれに付き合ってくれる友人がいたことは幸せなことだったと思います。私の思い出に強く残った作品を5つ挙げるとすれば、年代順に『十二人の怒れる男』、『サイコ』、『クレイマー、クレイマー』、『ディーバ』、『3人の逃亡者』ですかね。

山形大学での授業風景(本人提供)

反教育的側面も持つ、映画の魅力とは

 集団生活があまり得意ではなかった自分にとって、自由学園の生活は決して楽なものではありませんでした。週末に家に帰るとほとんどいつもレンタルビデオで映画を見ていました。楽しい反面、現実逃避している後ろめたさもありましたが、山田宏一さんの『トリュフォー ある映画的人生』(平凡社)を読み、「私にとって、暴力に代わるものは、逃避なのです。本質からの逃避ではなく、本質を獲得するための逃避、つまり戦略です」という言葉に触れ、何か救われた思いがしました。

 

一方、自由学園の学びは、思いがけないところで映画研究や批評で役に立っています。たとえば海外の映画にはよく詩編第23編が引用されます。宗教は映画においても大きなテーマであり、高等科のころにイングマール・ベルイマンにはまったのは、学園にいたからこそだと思います。最高学部のグループ研究ではユーゴスラビア紛争をテーマとして、エミール・クストリッツァの映画『アンダーグラウンド』を取り上げました。その発表を聞いた大貫隆先生から、東大の表象文化論を紹介され、1年間の研究生を経て東京大学大学院に進学し、10年を大学院で過ごしました。

 

就職氷河期だったこともあって、将来の不安もあった時期、よく「それで飯が食えるのか」と聞かれました。まるで無意味だろと露骨に言われているような気がしましたが、私にとっての映画は「社会との表面的なつながりを断つことで可能となる本質的な出会いをもたらしてくれるもの」なのです。映画を見ている間、コミュニケーションは切断されています。会話もできず、スマホもチェックできない。つまり孤独な状態ですが、孤独だと感じません。それは通常とは異なる出会いを経験しているからです。社会に関わることが教育の意義だとしたら、映画はどこまでも「反教育的」な存在と言えるでしょう。映画は役に立つか立たないかといった、つまらない物差しでは測れないものだと思います。

映画批評家は毅然としていなければならない

批評とは、作品を後世に残すために必要なもの

 今ではSNS等で誰もが映画批評を書ける時代です。誰もが批評家になれるということは、これまでの批評家の役割も問い直されているということです。「優秀な批評を書くよりも、1本の駄作を作った方がいい」と言われたことがありました。この意見には一理ありますが、この世界には駄作か傑作なのかも分からないまま、葬り去られる映画がたくさんあります。語るべきものをふさわしい言葉で語るという当たり前の行為を、自分の発言に責任を持つ覚悟のある人が、匿名ではなく発信する必要があります。

 

私は研究と批評はセットだと思っています。時間的に自分の近くにあるものを遠ざけるのが批評であり、時間的に遠くにあるものを近づけるものが研究です。批評は間違うこともあれば、理不尽な誹謗中傷を受けることもあります。詩人・小説家で批評家でもある松浦寿輝先生からは、ある映画監督からネットで悪口を書かれて傷ついていたとき、「批評家は毅然としていなさい」と言われました。無視しろ、と。これは今でも私の指針のひとつです。

 

批評は怖さを引き受けて書くものです。声を上げたら、叩かれるのではないか、間違うのではないかという怖さです。その怖さに打ち克つ力を、たとえば自由学園にいた頃に、手を挙げて自分の意見を言うという行為から体得したのかもしれません。製作者も無意識であった面を救い上げることにより、映画をさらに「生き直す」ことができることが批評の力なのです。

大久保清朗(おおくぼ・きよあき)

1978年生まれ。2001年自由学園最高学部卒業後、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論修士課程修了、同博士課程満期取得退学。博士(学術)。山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所副所長。映画批評家として『朝日新聞』『キネマ旬報』などに寄稿。共著に『成瀬巳喜男の世界へ』(筑摩書房)、訳書に『不完全さの醍醐味クロード・シャブロルとの対話』(清流出版)、『スピルバーグ その世界と人生』(西村書店)など。