「よそ者」の視点で水俣病を伝える

「よそ者」の視点で
水俣病を伝える

小泉 初恵
Hatsue KOIZUMI

水俣病センター相思社

女子部 90 回生

2020年6月29日談:オンライン

水俣湾を臨むみかん畑。かつて汚染されたことが信じられないほど、海は美しい。

初めての仕事はみかんの出荷

 水俣に来て、今年で5年目になります。ここ水俣病センター相思社は「水俣病を伝える」「水俣病患者とのつきあい」「水俣病被害地域支援」の3つの活動を柱に、1974年に設立。現在は職員5人、パート3人で運営しています。職員は20~30代が多いんですよ。

 

なぜここに来たかをふり返ると、最高学部でのネパールのワークキャンプが大きな経験でした。もっと海外のことや、開発、環境についてきちんと学びたくて、立命館アジア太平洋大学に進学。環境・開発学を専攻し、干潟の再生を研究するゼミに所属しました。荒尾干潟(熊本)で漁業などをしている人に話を聞く機会があり、科学で表せない知識を専門家がどう見ているかに興味を持ち、研究テーマにしました。

 

大学3~4年の時には交換留学で1年間スウェーデンへ。環境系の授業が充実していた大学で学びました。雪深い国で、一人では生きていけない風土があり、充実した福祉や環境政策も、みんなで生きていく制度として成り立ってきたことを実感しました。

 

帰国後、就職活動は肌に合わないなと思っていたら、指導教官からここを紹介されました。「遊びに行けば?」と言われて来てみたら、すぐに就職が決まって、単位を取り終えた11月から働き始めました。

 

初めての仕事はみかんの出荷作業。「おおっ?」と驚きましたが、柑橘類は水俣のシンボル的な作物です。70年代、魚を獲れなくなった漁師さんが甘夏みかんを作るようになり、それを買い取って全国に送る活動が始まりました。彼らは被害者である自分たちが加害者になってはいけないと、農薬や化学肥料を減らして栽培するようになりました。現在は、食べることで水俣を知ってもらい、感じてもらうツールの一つでもある。私自身、この地域にとってのみかんの意味や、どういう思いで売っているかを理解するまでには時間がかかりました。

 

水俣病:熊本県水俣市にあるチッソの工場が流したメチル水銀を含む廃液により、不知火海の魚介類が汚染され、それを食べた地域住民が健康を冒された公害事件。1956年に公式に発生が確認され、これまでに熊本県と鹿児島県でおよそ8万人が症状を訴えている。

水俣病センター相思社でスタッフと打ち合わせ。

水俣で水俣病を語る苦悩

就職先として面白そうだなと気軽に水俣へ来たのですが、最初の1年は1週間おきくらいに「自分が知っていたことは違ったんだ」と思う瞬間がありました。

 

たとえば「被害者と加害者」「患者とチッソ工場」という対立の構造で考えていたのですが、工場で働く人の中にも被害者はいて、だからこそ発言しづらいということ。また、私たちは水俣病の歴史を学び伝えることが大切だと思っていますが、地元の人にとっては、これ以上水俣病で町が注目されたくないという思いがあること。そういう考えに触れると、自分が重要だと思うことも、地元の人にとっては違うのかもしれないと感じます。

 

チッソは分社化され、JNCという新しく作られた会社がチッソの事業を引き継いでおり、水俣は今も企業城下町です。水俣病の原因となったチッソの主力製品はプラスチック原料でしたが、JNCが現在作っているのは液晶で、世界シェアの35%を占めています。水俣の人にとってチッソは町の誇りでもあることが、この地域の複雑なところ。町の中で水俣病を語るのが一番難しいし、いまだ生傷が乾かずタブーとなっている領域も多いと感じます。

水俣病歴史考証館を訪れた筑波大学の学生に、展示物の解説をする。

託されているのは未来に引き継ぐ責任

 最近よく思うのは、歴史は今につながっているということです。高校生などに水俣病を伝えるときには、「病気を引き起こした責任は私たちにはないけれど、だからといって無関係ではないんだよ」と話しています。

 

たぶん、誰でも何かの加害者になり得るんです。日本全体が豊かになるために、水俣の人は健康被害を受け、地域が分断されてしまった。人の想像力には限界があって、放置した結果、これだけのことが起きました。

 

今、私たちに託されているのは、その事実を引き継いでいく責任です。過去に起きたことを参照し、ここから未来をつくっていかなきゃいけない。そのためには、学び取ったことを言葉にし、未来も同じように学び取れる資料を残す必要があると思っています。

 

水俣はとても住みやすく、人もすごくやさしい町です。いろいろな話を聞いたり知ったりするのは興味深くて楽しくて、その気持ちは変わらないのですが、水俣病を伝えることはとても難しい。私が説明して押しつけがましくないだろうか。自分が経験したつらさや痛みではないのに、私が語ってどうなるんだろうといつも考えています。

 

私は外からきた「よそ者」です。でも、地域づくりで「よそ者、ばか者、若者が必要」と言われるように、よそ者は必ずしもネガティブな言葉ではありません。地元の人が気付かないことに気付くことができるかもしれない。あるいは、地元の人が持っていくのがあまりに苦々しい記憶だとすれば、よそ者が少しは引き受けてもいいでしょうか、という気持ちでいます。

「逃げたくなるときもあるけれど、自然環境が素晴らしく人もすごくやさしい土地」

小泉 初恵(こいずみ はつえ)

1991年兵庫県生まれ。自由学園最高学部卒業後、立命館アジア太平洋大学でアジア太平洋学部環境・開発分野学を専攻。在学中1年間スウェーデンに交換留学。卒業後、一般財団法人水俣病センター相思社に勤務。