豊かに生きていくために文化を発信し共有する

豊かに生きていくために
文化を発信し共有する

森 恵子
Keiko MORI

凸版印刷株式会社 ソーシャルイノベーション事業部 課長

女子部 62 回生

2021年3月27日談

自由学園最高学部棟にて

世界と繋がる場所へ

 バウハウス(*1)のデザインに憧れ、卒業後は工芸研究所(*2)に行きたいと思っていましたが、叶いませんでした。クリエイターにならず就職するなら、広い世界に繋がる場所がいい。自由公募の試験に挑戦し、住友商事に入社しました。バブル期の商社は忙しく華やかで、得難い経験をさせていただいたものの、次第に息苦しさが募りました。

 

やはり文化芸術のそばにいたい。すでに身近になっていた海外に拠点を移そうと思ったことを覚えています。海外でキュレーターになろうと考え、街や学校を見るため一人でパリへ。会社のパリ事務所に挨拶に寄ってみると、「フランス語もできないのにいきなりキュレーター修行は無謀だ。ここに来れば?人事に掛け合うよ」と思いがけない誘いを受けました。

 

しかし、まだ総合商社が女性の海外駐在を認めていなかった時代、男女雇用機会均等法施行の前です。当然、私の行動は社内で問題となりましたが、ヨーロッパから帰任したばかりの上司が私のパリ行きを人事部に掛け合ってくださいました。娘さんを自由学園に入れたくて学園の近くに引っ越したという方でした。

 

(*1)バウハウス:1919~1933年、ドイツのワイマールにあった美術学校。工芸・写真・デザインなど美術と建築に関する総合的な教育を行った。モダンデザインの基礎を作り、今もさまざまな分野に影響を及ぼす。

(*2)工芸研究所:自由学園生活工芸研究所。バウハウスの影響を受けたイッテン・シューレで学んだ卒業生によって、1932年に創立。日々の暮らしを豊かにするモノづくりを続ける。

1992年、パリで日系企業の代表をしていたころ(本人提供)

パリで白血病になり、人と神の愛に気づく

 パリ支社での1年目は言葉がわからず本当につらくて、翌年フランスで一番言葉がきれいだといわれるロワール地方にホームステイ。フランス語で会話する日々を通して言葉が聞き取れるようになりました。その3年後、日本企業がパリに法人を作りたいという話が会社に入り、言葉も滞在資格も問題のない自分が社長となることに。商社を離れ、新たな道に踏み出しました。28歳の時です。

 

そこでは、社長兼編集長としてヨーロッパのデザインを紹介する雑誌を作りました。パリを中心に、ミラノ、バルセロナ、ロンドンなどにスタッフを置き、各国で取材した内容を日本語で発信。デザイナーやアーティストたちと対話する仕事が楽しくてたまりませんでした。しかし、ある日突然、急性骨髄性白血病を発症したのです。

 

「治療しなければいずれ死ぬよ」と直截に告知され、切迫した病状を知りましたが、その医師は「パリで治療するなら本気で君を治す覚悟がある」とも言ってくれたのです。彼の言葉を聞いて、パリで治療することを決心。しかし骨髄ドナーは見つからず、医師たちは当時最先端だった私自身の造血幹細胞を使う骨髄移植、自家移植に踏み切りました。症例も少ない中での決断、治療でした。

 

広い無菌室で一人過ごす膨大な時間、テレビ番組や医療スタッフの言葉がわからないときは辞書で調べ、朝は聖書を読み、夜中に大声で讃美歌を歌って叱られたこともあります。治療費は100%フランスの国負担でした。「治療しなければ死ぬから」というのがその理由です。フランスのシンプルで強い人道的な信念を体感し、もし生きて病室を後にできたら私もそのようでありたいと思いました。

 

「君には強い生命力がある。助けるから、君も戦え」と言ってくれた医師たち、眠れない夜に付き添ってくれた医療スタッフ、パリの仲間たちにも本当に助けてもらいました。その間、日本の家族にかけた心配を思うと、健康でいること、前向きに生き続けることは自分の責務のように思います。

1994年、無菌室で徹底治療の末、光が見えたころ(本人提供)

日本にも世界に誇れる芸術がたくさんある

 1年近い治療を終え、会社を清算するとパリ市が生活保護と住宅手当を手配してくれました。決して安い家賃の部屋ではないのにと言うと、「生活の質を落とすと精神状態が悪くなる。頑張り抜きなさい」と。

 

一度神様に預け、戻していただいた命です。病を通して人を信頼することを学び、人生の軌道修正をはかりました。体力を戻し、パリ第8大学造形芸術学部で学び直し、フリーのグラフィックデザイナーとして活動。数年後にはフランスのデザイン会社でアートディレクターとなりました。

 

ひとつ乗り越えると、次にすべきことが差し出されるようにやってくる。そのような日々を過ごすうち祖母が亡くなり、次は両親の番だと気づいて初めて日本に戻ろうと考えました。パリで知己を得た凸版印刷での仕事が決まり、2008年に帰国。今は自社が持つ技術と知見、ネットワークで日本の文化芸術の下支えをするためプロデューサーをしています。日本が文化立国であって欲しい、世界からもそのように認知してもらいたいのです。

 

たとえば能楽師の装束の下の動きを記録に残す。これはモーションキャプチャーと呼ばれ、データアーカイブのひとつとなり、技芸を後世に伝える記録となります。凸版印刷の技術でデジタル化する対象は多岐にわたり、文化芸術やスポーツの分野に応用できるまでになっています。

 

パリでの21年間は日常的に本物を見る機会に恵まれましたが、今度は日本の文化芸術を世界の人と共有したい。人々が豊かに生きていくため、新しい視点で文化を見せたい、後世に遺したいと思うのです。 かつて思い描いた仕事をさせていただけている、こういう道筋でなければたどり着けなかった場所にいる、と感じます。何ひとつ無駄なことはありませんでした。

「日本の文化芸術を世界の人と共有したい」

森 恵子(もり けいこ)

1963年生まれ。自由学園最高学部卒業後、84年に住友商事株式会社に就職。87年フランス住友商事へ。28歳で日本の内装設計会社の現地法人代表取締役になる。94年、急性骨髄性白血病を発症、現地の病院で治療し完全緩解に至る。パリ第8大学造形芸術学部で学び、グラフィックデザイナーに。2008年に帰国し凸版印刷株式会社に勤務。