第41回 「神田町歩き」余話-「お玉湯」夢想/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第41回 「神田町歩き」余話-「お玉湯」夢想/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第41回 「神田町歩き」余話-「お玉湯」夢想

2016年8月29日

8月の午後、雑誌『東京人』10月号(9月発売)の「神田町歩き」の取材の途中、同行の編集者(自由学園最高学部出身H君。)と別れたあとで、銭湯「お玉湯」に入った。

金山神社の斜め横。ビルに埋もれたような銭湯だ。銭湯には、必ずと云ってよいほど、飲み物の自動販売機が置いてある。私も、そこで湯上りにビールを飲むのだが、それがない。何とも潔い小さな銭湯だ。「どっこい神田っ子は、チャキチャキだ。」みたいな雰囲気がある。湯船が熱くて深い。
湯船の脇には「埋め過ぎ注意」とある。私は熱さに我慢がならず、隣のぬるい湯にゆっくりつかった。

この近くに「お玉が池」あった。かっては上野の不忍池くらいの大きさだったそうだが、江戸時代の始めには、だいぶ小さなものになった。今は、この銭湯と路地の「繁栄於玉稲荷大明神」稲荷に名を残すくらいだ。

この近くにあったのが、「ご存じお玉が池の千葉道場」。
千葉周作には、剣術指南のみではない、水戸藩お抱えの思想家といった雰囲気がある。桜田門外における井伊大老襲撃事件の背後には、千葉周作の影が見え隠れする。千葉道場の隣にあったのが、東條一堂の開いた儒学の「瑤池塾」。周作と一堂は、昵懇で、「お玉が池」に行けば、文武両道を学ぶ若者が集まった。門下三千、維新の志士も多い。

この周辺には、市河寛斎の「江湖詩社」があった。
寛斎の詩集に「詩を論ずれば心師となる」、又「相ひ値ひて席を争ふを休めよ」の言がある。
詩を論じることは、師弟の関係を作ることではない。議論は序列を決するものではない。自らの心を師とするためにある。文学の自立が自由をかなえさせると説いた。
この門下から、抒情豊かな放浪詩人柏木如亭、全国規模の詩壇ジャーナリズムを形成した菊池五山、詩界の寵児ともてはやされた大窪詩仏等が生まれた。

坂本龍馬等、千葉道場に通う者も、「江湖詩社」「詩聖堂」の面々も、蘭学者たちも、漢学者梁川星巌(逮捕直前の三日前にコレラによって死んだ)の「玉池吟社」の人たちも、さらに云えば、星巌と交遊をもった、安政の大獄の対象者、吉田松陰・頼三樹三郎・梅田雲浜・橋本左内そしてもちろん同じく獄に繋がれた星巌の愛妻紅蘭も、この辺りの銭湯で汗を流したはずだ。なにせ、よほどのお屋敷でもない限り内風呂なんてなかったのだから・・・。

桜田門外、井伊大老斬殺の背後にある千葉道場の若者と安政の大獄の犠牲者とは、一緒に風呂に入っていたかもしれない。桜田門外の変は、風呂仲間の仇討かも知れないなどと、ぬるい湯につかりながら空想をめぐらした。小伝馬町の牢屋も目と鼻の先だ。

讃岐生まれの鬼才平賀源内は、江戸の町を転々としているが、神田との関連も深い。「神田っ子の帰化人」とも称された。
源内は、初め聖堂の昌平黌に寄宿したが、次に神田鍛冶町、神田白壁町と移り住み、最後は、神田橋本町に住んだ。源内が、殺傷事件に巻き込まれ、獄中で亡くなったのは、安永8年(1779)51歳。
風呂からあがって、神田駅に向かうと、ガード下に、「北白壁通り」とある。源内がいたのはこの辺りか。ガード下には冷酒が似合う。

2016年8月28日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

 

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