第42回 黄金町のお地蔵さん/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第42回 黄金町のお地蔵さん/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第42回 黄金町のお地蔵さん

2016年9月20日

50年ほど前、20代半ば、60年代の終わり頃だ。
最初の教員生活は、京浜急行南太田駅近くの市立横浜商業高等学校定時制(Y高)だった。
入校時間は、新人規定で午後2時。授業は午後9時終了、そのあとクラブ活動。帰りは10時半を過ぎた。

今、大岡川は、桜並木が続くいい散歩道だが、当時は、異臭を放っていた。
学校帰り、どぶ川にネオンが揺れるのを見ながら、黄金町まで歩いた。黒澤明が地獄と呼んだ町だった。

川沿いに煮込みの効いた、おでん屋台が何軒か並んでいた。
たぶん50歳を過ぎていたように思う。その頃女性たちは、暑い日も寒い日も薄手のモスリン?のスカートをはいていたが、一人だけ作業用のモンペをはいていた女性がいて、時々、こなから酒をねだられた。
「黄金町の駅には幽霊が出るんだよ。階段の上だよ。知ってんだろう。空襲、あの駅で何百人も折り重なって死んだじゃん。」
「この人ね、いつも駅のお地蔵さんに餡パンあげてんのよ。モンペはいてお客さんなんかつかないよ。」
アセチレンガスの匂いの向こうで、若い仕事待ちの女性たちが、黄色い声ではやしたてた。

モンペ姿の女性と語ったこの話を突然思い出したのは、九月の初め、横浜で行われた全国の税理士会で、「戦後横浜の光と影」と題して講演をした時だ。
戦後伊勢佐木町などで多くの人が見かけ、記憶に残っている伝説的娼婦<ヨコハマメリーさん>の話を中心に、米軍進駐下の横浜の国策慰安婦、遊郭史について語った。

1945年5月23日朝9時22分。わずか1時間8分で、3月10日の東京大空襲の1.5倍の爆撃量が投下された。住民標的の低空無差別機銃掃射だった。死者約一万人。最大の被害地は横浜市南区。中でも黄金町駅への爆撃はすさまじく、駅の階段は多くの死体が重なり一歩も歩くことが出来なかったそうだ。

「空襲の時は、いい天気でね。青空でね。ひばりが鳴いてたよ。横浜の美空ひばり、いい名前だね。美空ひばりって聞いただけで涙が出るんだよ」
こんな話を聞いたのも、黄金町の屋台だったかもしれない。

%e9%bb%84%e9%87%91%e7%94%ba%e5%9c%b0%e8%94%b5s黄金町のお地蔵さん。
このお地蔵さんのことが頭を離れなかった。
私が勝手に思い込んでいた、大岡川ぞいのお地蔵さんは、江戸時代初めの道慶地蔵尊。
今、戦災の慰霊の地蔵尊は、黄金町駅から鎌倉街道を渡り8分、関東学院の小学校に上る坂道の途中の普門院の庭にある。

坂を下って、初音町の交差点。ここから川沿いのガード下は、麻薬と売春の街であったが、2003年、バイバイ作戦と名付けられた環境整備が行われ、機動隊まで出動して風俗営業は三日で浄化された。今は、「黄金町バザール」が行われるなど、当時の小部屋を利用した芸術の街が形成されている。

帰り、太田橋を渡って、真金町に出て、金刀比羅大鷲神社。
玉垣の角の石柱に「遊郭」の文字があった。

2016年9月19日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

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