ひとつ好きな字をあげてくださいと云われたら、わたしは「闇」と云う字をあげます。
そんな、縁起でもない。卒業式直前の晴れの日の礼拝に、何を云うんですか。又、へそ曲がりの学部長の戯言ですか。そんな風に云われるかもしれませんが、どうしてもこの字が語りかける<物語>を覚えておいてほしいので、お話しします。
この字をよく見てください。門構えに音とあります。門は密閉です。閉じ込められているのです。何も見えません。
しかし、その中で音が聞こえるのです。闇が深ければ深いほど音が聞こえてくるのです。わたしにとってこの音こそが救いの予兆のような気がするのです。研ぎ澄まされた五感が神聖なものを呼び込むような気がするのです。
語義の説明では、門は聖人を祭った神聖な場所<廟>を表し、「音」は廟の中での神からの「音なひ」を示すのだと云います。「音なひ」は、「おとずれ」とも関連するものです。神のお告げが現れる場が闇だとも云うのです。
ですから、語義的にも漢字の「闇」は不吉なことのみを指すものではありません。
闇の向こうにあるのは救いなのです。神のあらわれる前提と云ってもいいでしょう。
眼を閉じると云うことは、自らの行為の中で、暗闇を感じることです。目を閉じる、瞑目という行為なしに祈りはあり得ません。
闇と対照的に想起される言葉は「光」です。
聖書の中で、「闇」と「光」について触れている箇所がいくつかあります。
今日引いたのは、ヨハネによる福音書第1章4節~5節です。
「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
命が光であるとするならば、闇は死でしょうか。絶望でしょうか。闇がなければ光はあり得ないのです。「闇」は光の前提なのです。命は、「闇」を通じて生まれてくるのです。「光」のみでは、「命」は生まれないのです。
先日、卒業生と寮生のお別れの夕食会で、光風寮に招かれた時、「光の子」という聖書の箇所の話が出ました。光風寮の名前の元になったのは、「エフェソの信徒への手紙」4章8節「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」と云う箇所からの言葉です。「闇」を感じるものが、「光」に向かうのです。
燦燦と降り注ぐ「光」でありません。「闇」の中でもしっかりと灯す「光」です。栄光の光ではありません。灯し続ける「光」です。
仏教に「一隅を照らす」という有名な教えがあります。伝教大師最澄が伝えた言葉です。「宝石が国の宝なのではない。社会の一隅にいながら、命を照らす生活をする。その人こそが、なくてはならない国宝なのだ」という、意味です。
これにもいろいろな解釈がなされるのでしょうが、私は、「一隅を照らす」と云う言葉が<「光の子」らしく歩め>と聞こえてくるのです。そしてそれが、闇の中でも、否、闇であるからこそ、希望の声を聴いて「光」を呼び寄せて歩くのだと云う気がしてならないのです。
いのりは、「闇」の世で手繰り寄せる一筋の光です。闇夜の一隅を照らす光こそ「いのり」なのです。
諸君の前に続く長いこれからの道は、降り注ぐ光の道ばかりではありません。暗く、闇夜の道も必ず来るに違いありません。その時ぜひ「闇」の字を思い出してください。「闇」は絶望ではありません。いのりの中で耳をすませば、「音」が聞こえるはずです。友の声かもしれません。学園の緑を渡る風の音かもしれません。忘れ得ぬ年月の懐かしき音です。
見えるものは、衰えます。見たものは色あせます。
しかし、君らの胸に閉じ込めた若き日の「音」は、滅びることがありません。その音を忘れてはなりません。
いのりの日々に飛び立つ君に幸あれと祈ります。
2018年3月22日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)