自由学園の保護者会の礼拝で次のような話をしました。
質問をします。次の言葉の反対語(対になる反意語かもしれません)を言って下さい。
<親孝行>の反対語は何ですか。反意語として皆さんが想像するのは親不孝でしょうか。親不孝ではありません。「親」の対照語は「子」ですね。それと同じに「孝」の概念と対照的に使われる語を考えてください。
ここまでがヒントです。
この質問を色々な所でしました。海外の大学で講演したときの、私の決まりきった導入の話です。
先日、最高学部の学生が、ポーランドに研修旅行に行きましたが、私のこの質問をポーランドワルシャワ大学でしたことがあります。驚きました。受講生は日本文学を学んでいる大学院生を含めて20人くらいでしたが。8割の人が見事に答えました。
ワルシャワ大学は、日本語教育ではロシアについで長い歴史を持っています。優柔な日本学研究者も輩出しています。8割はこの歴史を背景にした回答率でしょう。
ワルシャワ大学は特例かもしれません。30年も前のことですが、辞書を丸暗記していました。その結果かもしれません。アメリカの大学でも同じ質問をしましたが、ワルシャワ大学のような高い回答率は出ませんでした。中国でも質問しましたが、ワルシャワほどではありませんでした。回答の確率順位は、ポーランド・中国・アメリカの順でしょう。
さて日本ではと云うことになります。そして皆さんはどのようにお答えになるでしょう。唐突さがあるから答えられないかもしれませんね。わたしも質問されたら答えられるかどうかわかりません。いささか意地悪な質問です。
もう少しヒントを出しましょう。
この原稿を書いているときに、学生が面談に来ました。ここまでの話をすると、それは「愛」ですかと答えます。たしかにそれに近いのですが、「愛」は、親子関係にのみ存在する言葉ではありません。愛は広い概念です。男女でも「愛」と云います。もちろん日本でもこの質問をしましたが、回答率はアメリカ以下でした。
<親>に対応するのが、<子>ですね。<子愛行>とは云いませんね。<不孝>つまり親に対して、愛情を持たないことの反意語として<不愛>とは云いません。<子煩悩>ですか、と学生が又答えました。近いですが、子を愛することが煩悩と云うことであれば、いささか否定的な意味になりますね。
矢印で整理しましょう。
子→(この矢印は上に向いています)親、これが孝行ですね。
私が質問しているのは親→子です。
前置きが長くなりました。
回答は、「慈」です。
親孝行の反対語、反意の対象後は「子不慈」です。不孝の反対語は「不慈」です。
「不慈」という言葉が辞書に載っています。『広漢和辞典』(大修館書店)では、中国の『礼記』を引き、「喪(も)に勝(た)へざれば、乃(すなわ)ち不孝不慈に比す」と例文が載っています。「喪」を守らないものは「不孝不慈」だと云うのです。親が死んでも子どもが死んでも、またたとえ友人が死んでも、「喪」に服さないのは、子を愛することもなく、親が子を愛する道からも外れていると云うのです。
矢印で整理すれば、親→子が「慈」なのです。慈しみなのです。
「慈愛」「慈母」「慈雨」などとも使いますね。「慈」は、階層的な上位者から、下位者に向けられる愛情です。
「慈」の行為<慈行>がなければ「孝」の行為<孝行>は生まれてこないのです。
ところがどうでしょうか。「孝」と結びついた言葉は、{慈}ではなく「忠」なのです。「忠」は原義的には誠意を尽くすと云うことでしょうが、私たちが一般的に使う場合には、下位者から上位者に対する一方的な被支配構造のなかでの忠実さです。「慈」と云う言葉を忘れたのです。忘れさせられたのかもしれません。
例えば、戦前の教育では、天皇を父と呼び<孝>を尽くせ、さらに家庭においては、父母に<孝行>せよと教えました。そして国家に<忠>を尽くせと教えました。「慈」はどこかに消え失せて、「孝」と結びついたのは「忠」となったのです。教育勅語と云った教育理念がこれに拍車をかけたことは云うまでもありません。
<忠を離れて孝なく、父祖に孝ならんと欲すれば、天皇に忠ならざるを得ない>これが、教育勅語の道徳です。
この結果、父母又は目上に対する尊敬は絶対的価値観を持つようになったのです。戦前の憲法で根幹をなす思想があります。尊属殺に対する規定です。尊属殺とは、祖父母及び両親などを殺害することです。
1908年制定の明治憲法では、父母(自己または配偶者)を殺した場合は通常の殺人罪とは別に尊属殺人罪が設けられていました。通常の殺人罪では3年以上または無期懲役、死刑であったのに対して、尊属殺人罪では、無期懲役または死刑でした。刑罰の下限は尊属殺人罪ではより重くなっていたのです。この法律は、戦後憲法発布後も効力を持ち、1973年(昭和48年)に日本国憲法下では違憲判決が出され、1995年(平成7年)に削除されました。
尊属殺人罪の適用は、儒教による影響であるとか、フランス法の影響を受けているとなどと、多くの議論がありましたが、私には遅すぎる決定であったと思います。<忠>や<孝>の虚飾に満ちた美談が、あまりに語られ過ぎたのではないかと私には思えます。
「孝」と「慈」の認識を踏まえた、徳富蘆花の警告は今の時代にも当てはまるでしょう。
「家は個人に対して無限の専制権をも有すべきだろうか。子は父の資本なのだろうか。慈とは子に働かせて自分が安楽するための言葉だろうか。孝とは子が自己を犠牲にして一家を養うことだろうか。このように考えると、吾人は家族的専制に対して、一日たりとも忍ぶべきではないと思う。しかしながら吾人はただその父母を責めているわけではない。なぜならば、これは父母の罪にあらずして、家族制の罪だからである。・・ゆえに今日における社会の本位ともいえる家族主義の制度を一変して、個人主義の制度とする以外に、到底家族専制の悪風を打破することは出来ない」(徳富蘆花)
幼稚園児に教育勅語を暗唱させる。考えられないことです。その考えに同調し、名誉ある職につくリーダーが国家の中枢にいることにも疑問を持たざるを得ません。公僕たる官僚が忠犬のように権力の顔色を窺い書き換えを行っていることも、硬直しきった大きな大学が組織への忠を前提に、スポーツマンシップをも奪っていることも<慈>を忘れた結果ではないでしょうか。
孝行を要求する不慈なる力が、「慈」の一語を忘れて横行したのです。
日本の戦争の悲劇が、「忠」・「孝」の過剰が一因であることは間違いありません。その過剰さに教育の現場は毅然と立ち向かわなければなりません。
有名な讃美歌です。結婚式やお葬式、おそらく日本でもっとも流布していると云ってもいいでしょう。
「慈しみ深き 友なるイエスは 罪、咎、憂いを 取り去りたもう。
心の嘆きを包まず述べて、などかは下さぬ、負える重荷を。
慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りて憐れむ。
悩み哀しみに沈める時も、祈りに応えて慰め賜わん。
慈しみ深き友なるイエスは 変わらぬ愛もて 導きたもう
世の友我らを棄て去る時も 祈りに応えて労りたまわん」
(讃美歌312)
この讃美歌は、作詞者が婚約者を2度もなくした失意の中で作られたそうです。原題の英文は「What a Friend We have in Jesus」です。慈しみと云った言葉は元の文章には存在しないようです。
この讃美歌の着目すべき表現は、イエスを友と呼んでいるところです。神とは呼んでいません。父とも呼んでいません。友なのです。Friendです。いかなる苦しい状況にあっても、共にいて真理を求めるのが友です。
ヨハネによる福音書15章12-15には、友と云う表現に関連して、次のような言葉があります。
「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。もはや、私はあなた方を僕とは呼ばない。僕(しもべ)は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
厳しい言葉であると思います。イエスは友である私たちのために命を捨てたのです。そのことを信じることのできるものはイエスの友だと云うのでしょう。
愛する人が亡くなる。その死が私の命のためであったと思える瞬間が訪れるような気がしてなりません。その御許に近づくことが慈しみの深い愛に身を任すことなのでしょう。
イエスの慈しみは、友としての慈しみです。それをもたらしたのが父なる神なのです。
友なるがゆえに持ちうる宗教的慈愛<慈>は、<孝>と対比する以上に、さらなる深みを持つことかもしれません。
友と共に真理を求め、常にイエスのごとき導師を求めるのは、キリスト教に限ったことではありません。宗教が持つ根本かもしれません。四国霊場行脚の人が、弘法大師と共に歩み、笠に「同行二人」と記しているのも同じ精神でしょう。
今礼拝の時にあたり、「慈しみ深き友なるイエス」のことに、そして「祈りに応えて労りたまわん」という讃美歌の一句を我々はもう一度考えてみたいと思います。
この原稿を書いている時、新聞は5歳の子どもへの虐待、そしてその子供の遺書のあったことを報じています。ふるえるような怒りを覚えます。子供を所有物と考える家族主義の悪膿なのでしょうか。人間存在を否定する異常な悪魔の所業なのでしょうか。「子供へのしつけのつもりだった」などと答えています。これは、親のみならず、その<思想>を放置した国家の責任です。我々「国家」の一員が「慈」の一字を忘れているのです。
家庭教育においても、学校教育においても、「慈」の一字がもっとも肝要であることは、力説しておきたいと思います。
聖書をもう一か所引きます。
「私たちの主イエスキリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエスキリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」
(ペトロの手紙1・第1章3-4)
2018年6月11日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)