第9回 花札追憶/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第9回 花札追憶/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第9回 花札追憶

2015年11月30日

昨日ようやく、締切を過ぎた原稿を仕上げました。
題は、「エッセイ 花札追憶―明治35年帝国議会議事録を中心に」というものです。

エッセイというには少し長すぎて、400字30枚を越してしまいました。
少し微熱があって、風邪の症状に悩まされていたせいでしょか、外に出る気にもならず一気に書き上げました。

書き出しの部分です。

私が「花札」を教えてもらったのは、明治6年生まれの、母方の祖母からです。
祖母は、北海道の熊石村の生まれです。熊石村は、2005年に町村合併をして、現在は、八雲町です。
八雲町と云えば、噴火湾(太平洋側)側が、おもな地域ですから、八雲町の一部と云われてもイメージはわきません。
熊石は、日本海沿岸で江差町の北、対岸に奥尻島があります。
祖母が20代までの青春を送った頃は、ニシン漁で栄えました。
年表によれば、明治35年(1902年)の頃から、ニシンは来なくなったと記しています。祖母の30代は、ニシン不漁の始まった時です。
海がニシンの腹で真っ白に変わったそうです。
海はニシンで埋まり、ニシンの畑が出来たそうです。そしてその畑に柱を立てることができるくらいであったと祖母は私に語ってくれました。
ニシンが来ない日が何日も続いて、毎日、漁師たちは、「花札」ばかりやっていたそうです。
「ヤンシュは何もやることがないがらね。花札座布団に広げて、海ばっかり見てたんだよ・・。」

以下は終わりの部分です。

花札は、侵略的戦争の前線にありました。文化の植民地戦略の前線であったと云っても云いでしょう。かっての日本の植民地、例えば朝鮮半島、パラオなどに花札の残影が色濃く残っていることはこのことを証明しています。
明治35年の花札の重課税は、国家が賭博を公認化して、高級品化(特権化)したものあることはたしかです。国家が文化基準を一定化して、日本の自然美を統一したのです。
一月にめでたい松があり、二月に梅が咲き鶯が鳴き、三月に桜が咲き、花見を楽しみ・・。
殊更に、日本の自然は美しいと箱庭的に強調しながら、遊びという装置の中で、個々の自然観を奪っていったのかもしれません。
祖母の目に映っていた本当の自然は、花札の自然とは違ったものです。ニシンを待つ遅い春の到来です。又、祖母の目に花札を通して、繁栄の時と内地へのなつかしさが映じていたことも確かです。
日本の文化は、多くの矛盾を抱えた多様性を有したものです。花札の文化もその一例と云い得るでしょう。

これだけでは、何が何だかわからないかもしれませんが、エッセイの中でおもに引用したのは、明治35年帝国議会議事録です。

この時政府は、花札に高額の税金を付加しようとして、その議案を議会に提出します。
政府は、花札に税をかけ高額なものにして、家庭での花札遊びを抑制し、税収を国家予算の増強に充てる目論見もありました。
日露戦争に入る直前であったことも関係するはずです。

もちろんこれに反対者が出ます。
花札に多額な税がかかれば、零細の工場は追いついていけなくなり、独占販売になります。
それに、花札は家庭内に浸透し、当時、正月には、九割の家庭が百人一首の歌カルタか花札を楽しんでいたと云います。
実態を無視した法案だということです。

この課税案(骨牌税法案)には、足尾銅山事件における田中正造の強力な支持者で、自由民権運動の両輪でもあり、明治時代の知識人を代表するヒューマニストであった島田三郎と田口卯吉が、珍しく賛否両論に分かれています。このことからも、この法案の複雑さが読み取れます。

又、花札の成立が、ポルトガル船と共に日本にやって来た、天正カルタ(現行のトランプ)の消滅と関係のある事(大牟田市立三池カルタ記念館は当時の様子を展示しています。)、当時の代表的遊女高尾が、「ソルト高尾」(現行のトランプのクイーンの意味)などと呼ばれていたことや、明治35年に、北海道の巡業中に、花札賭博で新聞に載った相撲取り「鬼龍山」のことなどにも触れました。

「鬼龍山」のことは、羽仁もと子先生の故郷のことを知りたいと八戸市立図書館に行き、明治時代の地方新聞(「東奥日報」)を追っかけた副産物です。
明治35年は、羽仁夫妻の結婚二年目、「家庭之友」創刊の前年です。

この年の正月は、全国的に冷え込み記録的な寒さを記録した年でした。
1月23日、八甲田山麓で雪中訓練中の青森第8師団第5連隊第2大隊が猛吹雪で、210名中199名の犠牲者を出したのもこの年です。

羽仁夫妻は新婚ほやほやで正月を迎え、新しい雑誌の創刊に意欲的に取り組んでいたことでしょう。

明治6年生まれの祖母は、先生と同じ年の生まれです。そしてさらに、同じ年に結婚をしています。
祖母夫婦はきっと花札をしていたに違いありません。

2015年11月29日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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