第10回 追悼 佐藤泰正先生 「文学は人間力だ」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第10回 追悼 佐藤泰正先生 「文学は人間力だ」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第10回 追悼 佐藤泰正先生 「文学は人間力だ」

2015年12月2日

11月30日、少し酔って帰ると、下関時代に同僚であったM先生から留守電が入っていた。
「今日の夕方、佐藤泰正先生が亡くなった。明日お通夜だそうだ。」
先生は、夏目漱石・宮沢賢治などの近代文学の研究・評論でよく知られるとともに、下関に梅光女学院大学を創設した功労者である。
大岡昇平・遠藤周作・吉本隆明らとの深い交遊は、文学評論の歴史に新たなページを残した。

下関は、私にとって学問の出発点である。
この地で長州の文芸史に出会わなかったら、博士論文「近世大名文芸圏研究」もまったく進展しなかったであろう。
そして何よりも、日本の遊郭史で最も古い歴史を持つ下関稲荷町との出会いが、その後の研究を方向づけたといってもいい。

30歳代のほぼ10年を、私は家族とともに下関で過ごした。
先生には御宅が同じ町内であったこともあって、家族ともどもお世話になった。
下関時代の私は、放埓に加えて若さがあった。学長であった先生の前で、首をうなだれて、始末書を書いたこともあった。
先生の寛容が私を救い、発奮に力を得た。学恩とは違う、人生への恩義のようなものを感じていた。
 「命二つ中に生きたる桜かな」
この句を入学式で引用した私の話が週刊誌で話題になったことがあるが、芭蕉のこの句は佐藤先生が入学式で引用するオハコのようなものであった。私の話はパクリのようなものだ。
今、命二つ、先生と私の間をつないだ細い糸のようなものを感じる。

「文学が人生に相渉る時-文学逍遥75年を語る」(笠間書院 2013年)で、先生は東日本大震災の後の我々に次のように語りかける。
「あの天災、また人災に巻き込まれた人間の命の矛盾とは何でしょう。絶望すれば切りもない。しかしまた希望する力にも限界はない。ならば、この世界の、地上の、一微物として存在する人間の矛盾そのものを、その極限まで問い続けて行くものこそが真の<文学>というべきでしょう。この課題だけは失わず、今しばらく人生をすごしていきたいものだと念っています。」

宗教と文学の狭間に先生の研究があった。
16歳の時に出会ったドストエフスキーの「罪と罰」が原点であるとも聞いた。
人生の矛盾を直視し、その矛盾に垂直線を立てよと力説した。

私にとって忘れがたい一書は、「蕪村と近代詩」である。
孤高の輝きを持ち、行間に祈りが立ち上がる評論であった。屹立した言葉一つ一つが、若い日の私の胸をたたき文学への道を導いたのである。佐藤先生を直接知るだいぶ以前のことだ。

12月1日の朝、新幹線に飛び乗って前夜式(通夜)に参列した。港のそばの小さな教会である。
先生の訳した讃美歌がうたわれ、最後の別れがあった。先週の月曜日には、信徒大会の大きな会場で講演をし、土曜日にも講義をしたそうである。
座りながら崩れるように亡くなったそうだ。98歳の誕生日を迎えたばかりであった。

「自由学園に行くことになりました。」
「羽仁吉一先生は同郷だよ。理想のある学校だよ。」
電話口での会話が最後になった。
帰りの車窓が朝焼けで染まっている。

2015年12月2日 新幹線にて 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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