第29回 デンマーク余話1-アシステンス墓地・キルケゴール/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第29回 デンマーク余話1-アシステンス墓地・キルケゴール/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第29回 デンマーク余話1-アシステンス墓地・キルケゴール

2016年5月22日

キルケゴールの墓 午後八時、コペンハーゲンの五月半ばの太陽はまだ沈みません。西日が、ホテルの部屋いっぱいに入ってきます。陽が沈み始めると私には少し肌寒く感じられますが、デンマークの人たちは、この季節の太陽の光を吸い尽くすかのように半そでです。

今日は朝早く、中央駅からバスで約30分ほどのアンステンス墓地を訪ねました。この墓地には、デンマークの生んだ多くの著名人の墓があります。キルケゴールの墓地は、その一つです。

墓地は、緑の中にありました。
趣味というほどではありませんが、東京でも文学散歩の続きのような気分で墓地を訪れます。旅先のフランスでも、アメリカでも墓地はよく訪ねましたが、これほど緑が鮮やかな墓地を見たことがありません。

墓地の真ん中の道には、長いポプラ並木が続いています。
犬と散歩をしていた御婦人が、アンデルセンとキルケゴールの墓を案内してくれました。

キルケゴールに接したはじめは、大学二年の時の読書会です。テキストは「死に至る病」でした。私はその時まで、キリスト教はもちろん、宗教についても、真正面から向き合うことはありませんでした。そして、宗教とは、神や仏に対する確信であると思っていました。

「信じるか」「信じないか」その二つの分岐点が信仰の有る無しであると思っていました。
キルケゴールとの邂逅はそれを根源的に揺すりました。それは、今思えば、邂逅への謝念とでも云っていいような感情でした。

キルケゴールは「不安」と向き合うことが、信仰の原点であることを示唆したのです。

「不安を共にすることができるか」「不安を共にすることができないか」。それが、宗教への直視である。このことを教えてくれたのがキルケゴールでした。

それは、おそらく友情においても、恋愛においても、互いが求め合う感情の原点ではないでしょうか。希望のみが互いの愛を育てるのではありません。求め合う愛は、希望よりも不安を共有します。

若さゆえの解釈であったかもしれません。しかし、それ以来、キリスト教は避けることのできない首枷のようについてまわりました。

キルケゴールは、デンマークの国民精神の背骨になったという人もいます。誇りとは、声高なものではありません。小さくも強い不安な声の共有です。

世界で一番幸福な国と云われるデンマークにはやさしい不安の共有があるのかもしれません。

墓の周りには、リンゴの白い花が咲き誇っていました。北国生まれの私にとって、この花はふるさとそのものです。

2016年5月12日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

尚尚、余談・・・とここまでは自分のカメラがあったのですが、翌日紛失、好きなカメラだったので、恥ずかしながら自分といっしょの最後の写真を載せました。

カテゴリー

月別アーカイブ