第38回 貞享義民・馬刺し・芭蕉/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第38回 貞享義民・馬刺し・芭蕉/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第38回 貞享義民・馬刺し・芭蕉

2016年7月17日

7月半ばになっても、今年の梅雨はまだ明けない。帰宅途中に集中豪雨を浴びた翌朝、特急「あずさ」に飛び乗った。
松本から大糸線。梓川を越えると、安曇野の小さな中萱駅。
駅舎そのものが、この地で起こった、江戸時代における百姓の抵抗運動<貞享一揆>を象徴した庄屋づくりのものだ。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA駅から田んぼにはさまれた500メートルほどの道を歩くと、「貞享義民記念館」。
「大地に根をはれ人権の輪 未来へつなごう義民の心」と安曇野市教育委員会の掲示板、正面入り口左には、「日本国憲法第十一条・十二条」、右には、「世界人権宣言第一条」の碑文が記されている。これは、一揆を人権回復運動として見る記念館設立の趣旨を明確に示したものである。

貞享3年(1686年)10月14日、中萱村庄屋多田加助をリーダーとする安曇野・筑摩各地の約1万もの農民たちは、苛酷な年貢上納米に反対し、松本城下に約1万人のデモを展開した。
一揆の結果は覚悟の上である。
同月22日。各地の頭領11人、その兄弟、子供(男の子)17人、併せて28人が、磔、獄門となった。江戸時代前期でもっとも大きな百姓一揆のひとつである。
彼らは貞享義民と呼ばれ、義民説話は語り継がれた。

一揆が、よく知られるようになったのは、明治に入ってから、自由民権運動においてである。
殊に、安曇野・筑摩の自由民権運動家は、貞享義民の精神を継承した。
大正期には、半井桃水が「義民加助」を『東京朝日新聞』に連載している。尾上菊五郎による歌舞伎も上演された。
昭和4年には、映画「信州義民 中萱加助」も上映された。
戦後、昭和25年には、松本市の中学校建設現場(元刑場)から処刑された遺骨が発見され、「貞享義民塚」が作られた。そして、この記念館が、「ふるさと創生」事業の一環として作られたのは、平成4年である。
今年の「義民かわら版」(平成16年1月号)には、長野県人の愛唱歌「信濃の国」の作詞者浅井洌による「多田加助の歌」が発見されたとある。

「頃は貞享三とせの冬 時雨るる空の神無月 空に嵐の音さえて立まふ雲ぞ騒しき 霜に枯れふす民草の 堪へぬ思ひの苦しさに 破れ蓑笠とりよろひ 壱万余人集ひたる 松本城の大手前 うしほの如く押し寄せて 願ひ出たる五箇条に 民の命はかかりけり」などとある。
記念館の周りはよく整備され、甘味所や蕎麦屋もある。誘惑に駆られたが、夕暮れにせきたてられたのと、松本での馬刺しで一杯を思い描いて先を急いだ。

馬刺しにはロックの焼酎だ。酔った足で松本城。加助らが処刑された時、国宝松本城は少し傾いたそうだ。
帰路の車中。酔夢から覚醒され芭蕉を思った。

<猿を聞人捨子に秋の風いかに>
「野ざらし」となる覚悟で江戸を旅立った松尾芭蕉が、富士川のほとりに捨て子を見て、猿の声に涙を振り絞るという漢詩の故事を踏まえながら、己の詩性に突き刺した一句である。貞享元年甲子のことである。
この句の背景に、貞享年間各地に広がった飢餓を思わぬわけにいかない。芭蕉が、もし富士川ではなく、梓川のほとりを歩いていたら・・。そんな思いが駆け巡った。

2016年7月17日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

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