第125回 武田百合子/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第125回 武田百合子/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第125回 武田百合子

2019年5月10日

連載中の「赤坂人物散歩」(雑誌『東京人』6月号・5月2日発売)で、武田百合子を取り上げました。以下は掲載した一文です。

<もの“喰う”女>と武田百合子は称されている。
「もの」と仮名書きにしなければならない。物では冷たい。「もの」と書けば、人間の欲望の対象物としての食べものが浮かぶ。グルメや名産品ではない。「たべもの」なのだ。食うではいけない。「喰う」という本能的動作が浮かばなければならない。おちょぼ口で気取って食べているのではない。野性的食欲なのだ。女性では彼女を表現しきれない。肉体がある。「おんな」なのだ。日常の中にエロティシズムが匂っているのだ。

武田百合子は、大正14年(1925年)横浜市の鈴木弁蔵の孫娘として生まれた。19歳の時に横浜大空襲で鈴木家は全焼。彼女は水深80センチの庭の池で猛火に耐えた。戦後鈴木家は没落。百合子は貧しさのどん底で青春を迎えた。

多くの文人が集った昭和22年神田の喫茶ランボオ。しびれた「カストリ」焼酎が、武田泰淳との出会いを呼んだ。
「食べることが一番うれしいわ。おいしいものを食べるのがわたし一番好きよ。」
これは、武田泰淳作「もの喰う女」に登場する房子(モデルは百合子)のせりふ。この作品が書かれた3年後。昭和26年、百合子26歳の時、武田泰淳と結婚。その後、高井戸の公団住宅などを経て、百合子35歳の時、港区赤坂氷川町23「赤坂コーポラス」33号に転居する。山梨県南都留郡の富士桜高原に山小屋を購入。富士の見える河口湖畔と赤坂を往復する生活が始まる。ここでの生活を記したのが『富士日記』。

泰淳が脳血栓で倒れたのは、昭和46年。百合子が泰淳とともに旧ソ連への旅から帰った翌年だ。それから5年間の闘病生活の間、百合子は夫の口述筆記をしている。泰淳が亡くなったのは、昭和51年、百合子51歳、泰淳64歳。百合子が本格的な文筆活動に入ったのは泰淳の死後だ。
昭和52年には、『富士日記』で田村俊子賞、同55年には、旧ソ連への旅を綴った『犬が星見た』が読売文学賞。亡くなったのは、平成5年(1993年)、67歳。
赤坂のマンション(赤坂コーポラス)は、氷川神社の近くにあり、「鉄の扉の外側に鎧戸みたいなものが取り付けられていて、わざと稚拙に書いたような「武田」の文字が。表札代りの煤けた木板の中に沈み込んでいた。」と村松友視は『百合子さんは何色』で記している。

亡くなる1年前、彼女の最後の作品となった『日日雑記』にこんな記述がある。
「ある日、一日、晴れわたっていた日の夕方。カレー屋のT。満席満員である。今年も夏がやってきた。写真代が入ったから「母の日」をするというHの奢り。カレーを食べたい気持ちになるとき。〇からりと晴れた日〇体力のある日。(そうはいっても、こんにゃくを食べたくなるほどの体力まではない日)〇強気の日〇反省していない日〇気分のいい日〇気分のふさぐ日にも。(ふさいでもお腹は空く。これを食べて元気を出しましょうと食べる。ふさいでいる日には、悪酔するからお酒は飲まない。このての食べものは、カレーのほかにもう一つある。鰻重)
Hは娘の写真家武田花さん。Tは、和風味が効いている近所の洋食屋「赤坂 津つ井」であろう。そして「カレーが食べられなくなったときは、もうおしまいだ、きっと。」と述べ、山王通りを乃木坂に向かって「のんきな眠たい気分。象あざらしが、風に吹かれている気分」で歩き、「乃木神社の石垣に腰を下ろすと、ひんやりした。どくだみと苔の匂いがする。水の流れる音が境内の公衆便所のあたりから聞こえてくる。」と記している。

死を前にしたさびしさを赤坂の町とともに読み取るべきだろうか。埴谷雄高は、百合子の葬儀の弔辞で彼女を「全的肯定者」と述べた。赤坂も又<もの“喰う”女>を全面肯定できる町なのだ。

 

2019年5月10日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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