イエスキリストが、ガリラヤ湖のほとりの小高い山の上で行った説教は、山上の垂訓などと呼ばれて、キリスト教の教えの中でも、もっとも大事な教えです。それを伝えているのが、『新約聖書』「マタイによる福音書」の第5章から第7章の部分です。この部分には、主の祈り、地の塩、狭き門などの話があります。
その中でも、もっとも要になる教えの一つは、以下の部分です。
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」(「マタイによる福音書7章12節」)
相手が願っていることを、相手がこのようにして欲しいということを、自らが感じ取って行動を起こしなさいというのです。相手の気持ちを理解することが大切だというのです。
この教えは、黄金律ともよばれ、重要さが強調されてきました。
キリスト教のみではありません。この認識は世界に共通のものです。
ユダヤ教には「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」(『トビト記』)とあり、回教では、「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」(『ムハンマドの遺言』)等とあります。ヒンズー教の教えにも同じような教えがあります。
日本の思想に大きな影響を与えた仏教や儒教でも、同じようなことが言われています。日本古来の神道にもきっとあるはずです。
『論語』では、孔子に向かって弟子が、「先生、一言で生涯行うべきことを表すことが出来ますか、」と問うと、孔子が、「それは恕だな。自分がされたくないことは、他の人にもしないことだ」と答えています。福沢諭吉が、『福翁百話』で、「己の欲せざるところを人にほどこすことなかれとは、古聖人の教にして、之を恕と云ふ」と云っているのは、この論語の話によったものです。
非常に簡単なことのようにも思えますが、これは極めて難しいことです。重要なことだから、多くの教えのメインテーマになっているのですがそれは実行の困難さがあるからでもあります。
まず難しいのは、「言葉」です。
相手に投げかける言葉は決して相手にのみ向かうのではなく自分にも向けられていることを自覚しなければ相手の気持ちを理解することが出来ません。
相手を傷つける言葉や行動は、自分の使うナイフのようなものだと云います。相手を傷つける言葉<ナイフ>が自分に向けられた<ナイフ>になったらどのように感じるでしょう。私は、自分の言葉や行動が、時に<ナイフ>になっているのではないかと自問します。
敵対する国同士でも教えられている宗教のもっとも大切な事は同じであるはずです。例えばイスラム教もキリスト教も仏教も儒教もさらに多くの宗教は「人の嫌がることはするな」と教えているはずです。それなのに戦争が起きます。
「人の嫌がることはするな」という教えは、ナイフにもなりうると云いましたが、それは保身しながら、相手の心を傷つける<ナイフ>になっているからです。その<ナイフ>は、保身しながら、自分の身を保つことが出来ないことはもちろんですが、自分を傷つけるのです。結果として待っているのは、正しいと信じていた自己の崩壊です。
自分の国の「平和」を維持するために、相手を傷つけるのです。武力行使はナイフをもって突きかかることです。武力行使は自分の身の上の危険をさらに増長することです。ナイフはブーメランのように自らの体をそこなうのです。
この文章を書いている時、次のような言葉が思い浮かびました。
17世紀ペルシアの詩人、タブリジのサーイブ・タブリーズィーの言葉です。
「敵を愛する秘訣は牡蠣に学ぶべし。ナイフで切り裂かれても、相手に真珠を授けるのが愛の道」
坂本龍一監修『非戦』の中で引用されたものです。
『非戦』は、WTCが崩壊した2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の直後に刊行されたものです。翻訳の枝廣淳子、監修者の坂本龍一、執筆者のオノヨーコなど、自由学園に連なる多くの人が参加している本です。あれから17年経過したことに思いを新たにした名著です。
地球の歴史が繰り返し発してきた「恕」のメッセージに逆らいながら、さらに悪い方向へ、さらに泥沼へとこの16年の歴史は動いたのです。それを少しでも止める力になるはずであった日本の憲法でさえ、歴史に飲み込まれ<黄金律>を忘れ、改正の論議は始まろうとしています。『非戦』の刊行目的は、「sustainability for peace」です。
持続可能な開発教育(ESD)は、自由学園が今指標とする重要な側面です。高橋学園長の下でこのムーブメントは大きく発展しようとしています。
自由学園は、幼児生活団から、初等部・中等科・高等科・最高学部さらにリビングアカデミーと、4歳から70歳を越えるひとびとが同じキャンパスに集います。
もちろん広いキャンパス、緑深く、四季の花々が咲きそろい、白鷺の跳ぶ小川があり、フランクロイドの影響を受けた木造のモダンな建物、食事の支度まで保護者や生徒が行うといった他の学園に類例を見ない子供・学生たちの自治活動、その他数えきれないほどの個性を持っています。
それら環境が教育の背景になっていることはもちろんです。
しかし、もっと誇るべきこと、さらに我々が誇らなくてはならないこと、誇りあるものにしていかなければならないことは、<いじめ>と云った行為に代表されるような人権への阻害を阻止することのできる基盤を世界の如何なる教育機関よりも、深く先進的に学園が共有することです。
人権を守り、「いじめ絶滅」の思想を、どこの教育機関よりも先んじて世界に発信できるように、教育しなければならないということです。それが出来る誇りと可能性を有しているのが自由学園です。
聖書の群れから離れた子羊の挿話を借りて言うならば、99人の元気で健康な人たちが前へ進むのを渋滞してでも、一人の子ども・学生・老人の悩みに寄り添うことのできる学園であるべきなのです。
もちろんそれは最初に述べた様に、キリスト教に固有のものではないでしょう、祈りを根源とする宗教の、さらに言えば人間直視の共通基盤なのです。
<いじめ>が起こってから対応するのが多くの教育機関の現実です。しかしそれではあまりに遅すぎます。起こらないようにするには何をなすべきかが重要です。<いじめ>を絶対に起こさないために、厳しい人権教育も必要です。毅然とした姿勢も必要です。はっきりと「ダメ」なものは「ダメ」ということも必要です。「ヘイト」などの誤った思想教育に対しては、学園は教育機関として、絶対的指導が必要です。生徒・学生が深く自主的に人権の問題を考えていくことは重要な教育方法です。そこには、教育者の強いリーダーシップが求められます。教育者また学校は、差別や人権阻害に対しては、自己の立場をはっきりさせて、立ち向かうことが重要です。大人としての責任が必要です。
「いじめ」が、戦争の根源であることを忘れてはなりません。子供のいじめの背景にあるのは、「戦争」の容認です。学園は寛容と愛の精神で「非戦」を貫き、完全なる「いじめ」根絶への旗手でなければなりません。
以上は、2017年6月10日の保護者会、又6月20日の全国友の会「近畿部高年会員の集まり」の礼拝を担当した際にお話ししたものです。
2017年7月4日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)い