7月27日付『佐賀新聞』(デジタル版)の記事の一部。
見出しは、「増田神社、例大祭を中止 コレラ対策尽力の殉職巡査祭る 唐津市肥前町高串」とある。
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/552782
「唐津市肥前町田野の高串地区にある増田神社は、125年前に地域に広がった伝染病コレラの対策に尽力し、殉職した増田敬太郎巡査(1869~95年)を祭っている。毎年7月下旬に例大祭を盛大に開いてきたが、今年は新型コロナウイルスの影響で中止。26日に自治会長らで神事だけを執り行う。例大祭は自治会が開き、白馬に乗った増田巡査の山車のパレードや花火の打ち上げなどをしてきた。熊本県在住の遺族や警察関係者、地域住民など例年200人近くが参列する。今年はコロナ禍でメディアから取材の問い合わせが増えたと言い、自治会長の武田良徳さん(72)は「地域でつないできた例大祭で毎年にぎわう。中止は大変残念」と話す。県警は警察学校生たちが訪れる慰霊祭も今年は取りやめた。」
増田神社は、全国でも稀有な例であろう。若き名もなき警察官をまつった神社である。
125年前、明治28年。前年、勝利に沸いた日清戦争の帰還兵が、コレラを持ち帰ったと云われている。再三、コレラ防止のため禁止されたが、沸き返る凱旋帰還の祝会にそれは役立つことはなかった。コレラは、佐賀県だけでも死者60名、殊に唐津市周辺東松浦郡は、衛生管理も行き届かない貧しい漁村であったこともあり、コレラは猛威をふるい佐賀県内の半数の死者をだした。
6月末、高串では最初の患者が発生、増田巡査が赴任した7月21日までに、患者数74名、死亡者は9名であった。当時、この村の人口は約400人、その恐怖は想像に難くない
恐怖の中で、増田巡査は、衛生指導、死体処理と働き、3日後の24日コレラに罹患、午後3時に亡くなったのである。その時、増田巡査は、
「とても回復の見込みのないことは覚悟しています。高串のコレラは私が背負って行きますから御安心ください。十分お世話せねばならぬ私が御厄介になりました。」
と言葉を残したそうだ。
彼の遺体は、沖の小松島で火葬の後、郷里の熊本県菊池市に埋葬され、その一部が高串に分骨され、村の鎮守秋葉神社(現在は増田神社と呼ばれている)に埋められた。その鳥居の扁額には「巡査大明神」と刻まれている。
<コレラは私が背負う>という増田巡査の遺言伝承は、村人たちの間で広がり、夢枕に立ち子供を救うなどの霊験譚が重なり合い神格化されたのである。
早くも、死の翌年明治29年には、拝殿が出来、彼岸には村人は漁を休み「おこもり」をしたと云う。その後社殿も増改築を重ね、玉垣・狛犬も備わった。
明治以降、巡査のイメージはけっしてよいものではなかった。怖いもの、権力をふるうものであった。正義をかざすというよりも、むしろ権力をかさにきるといったイメージであった。給料が安いということも巡査には付きまとっていた。それが、明治38年の警察大改革によって、巡査の給料は倍額にされ、警察精神を高揚するキャンペーンがはられた。これらの一連の警察精神高揚の動きに、増田巡査のコレラにおける殉死物語は重なりあいながら拡散した。昭和7年には、東京から一座を招き増田巡査劇も演じられた。そして昨年に至るまで、先にあげた新聞が報ずるように「白馬に乗った増田巡査の山車のパレードや花火の打ち上げ」があったのである。
警察の一大キャンペーンの結果といった見方もできるかもしれない。しかしその見方は、素朴な信仰をどこかで阻害するような気がしてならない。もっと民衆の心の奥底にある病いへの畏敬を虚心坦懐に見る必要が求められよう。
そんな思いを確かめたく高串の増田神社への祭りに参加したいと思っていたがそれもかなわなかった。
増田神社があるということを知ったのは、今年の学部での講義「日本文化史」で空海を取り上げ、彼が遣唐使船に乗り込んだという「渡錫ノ鼻」の周辺説話を調べていた時だ。「渡錫ノ鼻」の空海の石像から増田神社まで歩いて3分と旅行案内にある。信心が盛んなところに新たな神社が生まれたのだろうか?
芋づる勉強の偶然は重なる。
ステイホーム中、古い本を少し整理しようと思った。
色褪せた一冊の本、昭和33年に刊行された『にあんちゃん 十歳の少女の日記』(カッパ・ブックス)が蘇った。古新聞を整理するときのいつもの癖のように読みだしたのだが、最初に読んだ時の涙が怒りと一緒に押し返してくるようだった。この本は発行部数63万部の大ベストセラ―、ラジオ・映画・テレビで取り上げられ大きな反響を呼んだ。両親を亡くし、兄たちと生活する(にあんちゃんは、二番目の兄のこと)在日コリアンの少女が、貧しい生活の中で、差別と偏見に戦いながらも、懸命に生きるけなげな、あまりにけなげな日記である。おそらく私と同じ年代(もう少し若くても)の人でこの作品を知らない人はいないであろう。
時代は昭和28年。作者安本末子は私の一つ年上、小学4年生。読んだのは中学生のころだろう。7月22日、夏休みに入った日の日記だ。
「ドンドンドンと、たいこの音がしたので、出てみると、なにかしらないが、ぎょうれつして、えいがかんの方にむかっていきました。
光子さんとふたりで、行ってみました。
ぎょうれつは、高串の増田神社の夏まつりのせんでんでした。
増田神社が、どうしてできたのかは、いまから、五十年か六十年ぐらい前の話です。・・略・・・・」
2001年には、かって著者が学んだ小学校に「にあんちゃんの里」記念碑とにあんちゃんの銅像があるそうだ。増田神社からそこまでは歩いて行くのは少しきついかもしれない。
今は玄海原発でゆれている町だとも聞いた。
貧しさの中で肩を寄せ合って暮らした生活の中で、コレラはこの町で退散できたのかもしれない。
増田神社の拝殿の幕を引きちぎり疫病退散の「お守り」にするなどということもあったと云う。神社の境内の水瓶の水は神水とも呼ばれたそうだ。迷信と呼ぶのは簡単だ。しかし、祈りすがる気持ちがこの村の連帯を生んでいたことは確かなようだ。
私たちは、貧しさを忘れ、寄り添うことを忘れ、他者を非難することに汲々としながら新たな感染症の悲劇に巻き込まれているのかもしれない。
2020年7月30日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)