第3回 羽田澄子 『私の記録映画人生』/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第3回 羽田澄子 『私の記録映画人生』/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第3回 羽田澄子 『私の記録映画人生』

2015年10月18日

10月15日自由学園女子部の卒業生大会に羽田澄子さんがいらっしゃいました。
1926年に生まれ、敗戦の年、70年前に、自由学園女子部高等科を卒業し、90歳を迎える同級生と一緒でした。

記録映画「いま想う、学徒動員のこと」の撮影も行われました。
2016年完成予定のこの作品を私たちの学園は、真正面から受け止めねばなりません。

私の羽田作品との最初の出会いは、1967年制作の『風俗画―近世初期―』です。後に私は、『新日本古典文学大系』(岩波書店)の一冊で同時代の文学作品『仮名草子』(共編)の注釈をしましたが、風俗画「洛中洛外図」には実証のための参照資料にとどまらず、画像ならではの躍動美を感じました。
研究者としての原点といってもいい出会いでした。 

「薄墨の桜」(1977年)・「痴呆性老人の世界」(1986)・「女たちの証言―労働運動の先駆的女性たち」(1996)など、私の人生のほぼ十年ごとの区切りに、羽田作品がありました。
<自然と命><老いと介護><女性史>など・・。岩波ホールで見たそれらの映画は、研究生活、家庭生活の歩みの中で、一つの節目であったような気がします。

羽田さんは、2014年『私の記録映画人生』(岩波現代文庫)を刊行しました。撮影の周辺の話がまとめられているものですが、羽田さんがいかに素晴らしい聞き手であるかを伝えています。

その一つ。「痴呆性老人の世界」での熊本の病院長室伏医師の話。
「痴呆になると、知能のレベルは落ちる。しかし情緒のレベルはそのままである」「心を大切にする介護をつづければ、痴呆は治らないが、症状は軽減できる」

もう一つ。「そしてAKIKOは…-あるダンサーの肖像-」(2012)での、アキコ・カンダさんの文章。(アキコさんは、この映画の撮影中に亡くなったそうです)
「私の年一回の本公演がおわり、私のカンパニーの人たちの公演もおわったころ、それは撮影が始まって沢山の日々が過ぎたあとでした。
お母さんが(お母さんというのは、アキコさんが呼んだ羽田さんのニックネームです。)
「苦しいとき、悩んでいるとき、アキコさんはどうする?」
と、不意に、私に聞きました。私は答えました。
「ひとりで海に行くの、真夜中でも、朝でも、海の見えるところに行って、波の音を聞きながら過ごすの。」
・・・・(中略)・・・
 冬の灰色の厳しい日本海も好きです。
そこでも世界地図とは関係なく、私は海のむこうにニューヨークを見るのです。ダンスと格闘していた時間を見つめるのです。」
と、引用しています。
 
卒業生大会の始まる前、羽田さんのサインを『私の記録映画人生』の裏表紙に書いてもらいました。
人生を深呼吸しているような、ゆたかな字でした。
そのサインを見ながら、この頃海を見ていない自分が何だか抜け殻になっていくような気がしました。

突然です。私が二十代、初めて横浜の定時制高校の教員になった頃、ひとりで坂道をたどった野毛山公園の展望台を思い出し、副都心線で直行しました。着くと日はとっぷり暮れていました。
見えない海の、海の向こうを見てきました。

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近況報告::今週、孫4歳等とヤクルト戦神宮球場。夫婦爺婆、狂喜乱舞、孫ぐったり。
19日月曜日・BSTBSテレビ・PM10時から「日本歴史鑑定」で遊女の話にコメントします。学部長室での撮影です。
『東京人』11月増刊号(11月15日発売)特集「ホッピーでハッピー物語」で、「紀行 赤坂っ子余談」を書いています。立ち読み?の際、掲載写真のカメラにもご注目ください。レチナⅡCです。この取材の過程で、青年時代米国で奴隷になり、帰国後、日本銀行総裁、総理大臣をつとめ、226事件で、青年将校によって射殺された高橋是清の自伝を読みました。これは面白い。

2015年10月18日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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