第16回 北の志・・・旭川にて/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第16回 北の志・・・旭川にて/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第16回 北の志・・・旭川にて

2016年2月4日

少し時間が経ちましたが、1月19日、旭川青年大学での講演記録が、まとめて地方誌に掲載されました。それをさらにコンパクトにしました。

■北の志―坂本龍馬を中心に
私がいま痛切に感じるのは、この国から理想が失われているのではないかということです。理想について真剣に、互いに問うべきなのではないか。今夜は、理想の風土が北の大地や旭川に歴史として内在していたのではないかということをお話します。

当地の常磐公園には小熊秀雄(おぐまひでお)の石碑があり、次の詩が刻まれています。
 ここに理想の煉瓦を積み
 ここに自由のせきを切り
 ここに生命の畦をつくる
 つかれて寝汗掻くまでに夢の中でも耕やさん
東京の池袋周辺に住んでいた画家や詩人を研究する「池袋学」の座長を務めましたが、小熊も生前、池袋に住んでいました。小熊の「理想」の意識を皆さんと共有できたらと考えています。

11月初旬、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学を訪れ講演したとき、大学の先生が、ここでは先住民族のハイダ族に一言感謝を述べてから講演すると云う話を致しました。私はその姿勢に学びました。私も、北海道の先住民族であるアイヌの方々に対して、ここで話をできることについて感謝を申し上げて、開拓時代の話をしたいと思います。
また、このあとお話することは、これまでにも本や研究の中で取り上げられています。さきほど旭川文学資料館に行きましたが、木野工さんの小説『旭川中島遊郭』の資料も展示されていました。今日私は、たくさんの過去の研究の積み重ねの上でお話させていただいているということも、併せて申し上げておきたいと思います。
ちなみに、今日は初めて北鎮記念館にも行きました。戦争に行く青年の遺書を読みました。これに答える母親の手紙には、ずっと手紙を待っていた、体に気をつけろといったことがカタカナで書いてあり、涙が出ました。いろんな立場の方がいらっしゃると思いますが、やはり涙を流すべきものには流すことが大切なのではないか。北鎮記念館に展示されている母と子の感情にも、柔軟に接するべきではないかと感じました。

みなさん、北海道土産で有名な六花亭の包装紙を見たことがあると思うのですが、あの絵を書いたのは画家の坂本直行です。直行の祖父・坂本直寛のおじが坂本龍馬です。
さて、幕末のころ日本各地の遊郭で、ある小唄が大流行しました。
 あれ見やしゃんせ アメリカの七年血潮をながせしも これもたれゆえ自由ゆえ
外国からの影響を受けて、今私たちが知っている意味での「自由」という言葉は、明治初年から思想的概念として広く使われるようになりました。江戸時代だと「自由」は勝手気ままにという意味で、「私、自由にさせてもらいます」というのはお手洗いに行くという意味でした。
新しい自主独立の背景で、「自由」という言葉は、まず小唄で流行ったわけです。極端に言えば、明治初年の「自由」という言葉は色街で広まった。ともいえます。
坂本龍馬も長州、下関の色街「稲荷町」これを唄っていたといいます。

幕末のころの稲荷町は大変に流行った遊郭でした。そこで龍馬が北海道に行く夢を語っていたことが、明治になってからまとめられたお龍さんの思い出話に出てきます。当時、二人は稲荷町で一緒に暮らしていました。
「北海道ですか、アレはずっと前から海援隊で開拓すると云っておりました」
薩長をまとめた龍馬ですが、最終的には薩長の新政府から離れて、むしろ旧幕府軍に近い立場となります。船を買って、幕府の過激派を乗せて御用軍艦に乗せて蝦夷地開拓に向かおうとしましたが、途中で沈没し、龍馬の北海道開拓の夢は無念のうちに終わりました。

龍馬のその思いを最も強く受け継いだのが、おいの坂本直寛でした。直寛は土佐で自由民権運動の中心人物として活躍し、その憲法起草案は日本国憲法の先駆的位置を占めるとも言われています。キリスト教の熱心な信徒にもなりました。1896(明治29)年からは北海道開拓事業に邁進します。直寛らの開拓団は訓子府原野(常呂郡訓子府町)を目指しました。人跡未踏の原野で、いまの北見市発展の基礎を築いたと石碑には記されています。アメリカの開拓は最初、ボストン近郊に上陸した清教徒によって始められて、徐々に広がっていくのですが、北海道の開拓もほとんど同じです。

110年前の1月18日、直寛は狩勝峠を越えて、帯広にある集治監(刑務所)に入りました。キリスト教の伝道のためです。受刑者の約半数が自由民権運動の関係者、思想犯だといいます。強盗犯や殺人犯もいますが、権力者にとって最も厄介なのは思想犯でした。かつて流刑地だった八丈島や佐渡は、思想犯として知識人が流された結果、文化の水準が高いんです。網走や樺戸もそう。樺戸の集治監では、正岡子規が野球を始めたのと同じ頃、クリスチャンの所長、大井上輝前が囚人たちに野球をプレーさせていました。
私は1月 18日、帯広に泊まったのですが、狩勝峠のトンネルを列車で通り過ぎるとき、「この上にある峠を直寛は越えてきたんだな」と思うと興奮しました。

もうひとつ紹介したいのが、アメリカ人宣教師のピアソン夫妻と坂本直寛が取り組んだ廃娼運動です。

かつて、日本各地に遊郭、赤線などと呼ばれた娼婦の街がありました。その代表が江戸の吉原です。こうした街の存在は当然だという人がいます。とくに、明治以降に急に遊郭が増加しました。それはなぜか。お上は「若い奴が必要としているから」「性病が伝染しないよう管理するためには必要」などといろんな言い方をしますが、いちばんの理由はもちろん、遊郭から上がってくる巨額のお金、税収です。
北海道では明治になるとものすごい勢いであちこちに遊郭ができるんです。札幌には屯田兵の前に遊女が送り込まれたといいますね。大きな産業や工場ができると必ず遊郭ができます。
ところが、ハッカ工場のできた北見と、第7師団のあった旭川では、遊郭に反対する運動が起きました。

北見では、ピアソン夫妻と直寛が宣教活動と並行して廃娼運動に尽力しました。旭川で廃娼運動の先頭に立ったのは、後に東条英機の私設秘書となった佐野文子でした。
旭川にはもともと曙に遊郭があったのですが、ご存じのように結果的には第7師団に近いところに中島遊郭ができ、兵隊たちで溢れかえるわけです。しかし、軍内部にも反対の声があり、「わが軍隊にはそのような不埒なものはいない。軍を担う青年が、なぜそんな性のはけ口を求めるのか」と反対した師団長もいたということです。

とりとめのないお話をいたしましたが、私は、理想を追うという姿勢が、現実はこうだからしかたがないというように流れているような気がしてなりません。党派性を超えて理想があり、怒りや悲しみの感情があるのではないか。そのことをもう一度私自身を見つめなおして見たいと思います。

この姿勢は、「時に海を見よ」と題して述べたメッセージの原点と異なったものではありません。

2016年2月3日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

 

カテゴリー

月別アーカイブ