第36回 原発事故「不可不知之記」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第36回 原発事故「不可不知之記」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第36回 原発事故「不可不知之記」

2016年6月30日

2016年6月25日。朝8時久ノ浜から竜田へ。
山の中を過ぎ、右手に浜辺を垣間見て、トンネルをいくつか通り過ぎて広野駅。

童謡「汽車」のメロディーに送られて広野駅を出発。「今は山中、今は浜、今は鉄橋わたるぞと、思う間もなくトンネルの 闇を通って広野原」の作者は、小学校唱歌の作者としてよく知られる大和田建樹である。この歌は、彼がこの地を訪れた時のもの。「広野原」は「広い野原」と震災後不通となった「原町」(原ノ町)までを意味しているとも云う。そんなことやこの地がミカンの北限地で温暖・豊穣の地であることを、2012年3月、NHKラジオ深夜便で話した。

常磐線は、上野駅から竜田駅までが開通した。
竜田駅から、タクシーで原ノ町に向かう。

タクシーの運転手さんは55歳、福島原発に20年以上勤めていたという。震災の時は、たまたま金曜日が休みで、いわき市に用事があり、自宅のあった楢葉町に帰る途中だった。朝、いわき市にある仮設の学校に楢葉町の生徒を送り、夕方また迎えに行くのだそうだ。来年の4月には、学校が開校するので、その仕事はなくなるであろうと話す。

楢葉町は、原発事故に伴う避難解除後の帰還状況を月毎にホームページで公開している。
これによれば、4日以上滞在者の帰還率は、平成28年6月3日現在、世帯11.5%、人員7.3%である。
年代別で5歳から19歳までは6名。
10%に満たない故郷帰還人数を、いかに受け止めるべきか。課題はあまりに大きく深い。

富岡 放射線量計

富岡 放射線量計

富岡駅前。海水浴客でにぎわった駅前の商店街は原発事故直後のままである。 放置放射線量の計測器が駅前にある。線量は0.206とオレンジ色の数字が点滅している。

白いマスクをした工事車両誘導員に導かれるように富岡の海を見に行く。
軽量放射線の廃棄物の焼却炉は、フェンスで囲まれ、ダンプカーが所狭しと並ぶ。
海岸線は放射線廃棄物をいれた大きな黒いビニール袋の壁である。

海の表情はまったく見えない。
5年3ケ月余、富岡の海の時間はあの時から止まったままだ。

多くの旅人たちが行き交った浜通り街道を北に。
緑の中を車が進む。夜の森、桜の名所としてよく知らえたところだ。思わず窓を開けようとして、たしなめられた。

「ここは、窓を開けちゃだめだよ。放射線量多いからね。駐車も禁止。バイクもここは通れないからね。」(参照:福島県ホームページ ふくしま復興ステーションは、福島第一原発近くの放射線量を毎日アップしている。執筆中の6月29日9時30分現在 原発に近い夫沢は11.077・南台は6.328・熊川は2.563マイクロシーベルト)

道には至る所に「獣物注意」の標識。
「たぬき、イノシシ、ハクビシンなんかが多いかな。厄介なのはハクビシンだね。以前はね、イノシシ鍋なんかうまかったね。たっぷりキノコ入れてね。今は、タケノコもだめだね。」

タクシーは、浪江町を過ぎる。

2016年1月4日「河北新報」にこんな記事がのった。
「東京電力福島第1原発事故で避難し、福島県二本松市の仮校舎で授業を再開している福島県浪江町の浪江小、津島小の児童が、古里の歴史や文化を題材にした「なみえっ子カルタ」を作った。かるた作りは2012年度から、町の自然や伝統芸能を学ぶ「ふるさとなみえ科」の授業で取り組んでいる。本年度は授業のまとめとして、これまで作った約100点から46点を選んで初めて印刷した。読み札は浪江の風物詩や行事などを五七五にまとめ、絵札は絵本作家の指導を受けて描いた。
<十日市 かならず買うよ わたあめを>
<大漁旗 請戸になびく 出初め式>

など町の行事や、
<またおいで となりのおばちゃん お友だち>
と離れ離れになった友人を思う気持ちなどをつづった。
300セット印刷し、卒業生や転校生に送付したほか、仮設住宅や町民交流館に贈呈。12~15日には二本松市の仮役場に展示する。
浪江小の遠藤和雄校長は「かるたを通して古里を思い出したり、子どもたちに町の歴史や文化を伝えたりするきっかけになればうれしい」と話した。

車は、まもなく小高地区である。
浪江駅から小高駅までの常磐線運転再開は2017年3月、又富岡駅から浪江駅までの再開は、2020年3月までとされている。もとより除染の進行しだいである。
私に何が出来る。悲しみに寄り添う。そんな不遜な、と、思う。もしも、出来ることがあるとしたら、忘れないことだ。

論語「里仁」に「父母の年は、知らざる可からざるなり」の言がある。「知」は「覚」、記憶。「父母の年は覚えていなければならない」の意味である。父母とは生み出してくれたもの。私たちは原発事故を忘れてはならない。覚えておかねばならない。そんな思いで、東日本大震災の跡地を歩いた。2016年梅雨の間の記である。

2016年6月29日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

カテゴリー

月別アーカイブ