第51回 熊野から美作へ/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第51回 熊野から美作へ/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第51回 熊野から美作へ

2016年11月29日

先週慌ただしく、和歌山・岡山・山口を旅した。
和歌山県新宮市を訪れるのは二度目。
学生時代を共に同じ空気を吸ったN氏を中心とした旧友に迎えられるこの旅は、実に屈託なく楽しい。

不老不死の薬を求めてたどり着いたという徐福伝説の地、仏たちや神々の慈悲を語る熊野信仰の道、小栗伝承の救済を物語る温泉、海上に浮かぶ竜宮のごときホテル、串本、大島の伊勢エビ丸ごとどんぶり。満腹満足に酔った。

紀伊白浜で妻たちを送った後、下関の恩師の一周忌の行われる日まで、一日時間が空いた。
どんよりした空模様と一人旅になった寂しさが誘ったのかもしれない。急に思い立って姫路に向かった。
熊野との世界遺産つながりで、新装なった姫路城でゆっくりしようと思ったのだが、振り子に振られるような思いで、姫新線に乗り込んだ。

津山の図書館で調べたあと、駅からタクシーに乗り、約半日ほど、<美作血税一揆>の跡を訪ねた。
美作血税一揆のことは、『國史大辞典』(吉川弘文館)に立項はなく、「徴兵令反対一揆」の項目で説明されている。(地域史では通用)

血税は、「徴兵告諭」の「生血ヲ以テ国ニ報スル」の一節が、本当に生血を取るものだと誤解されたもの。
「徴兵令反対一揆」は、明治6年の三重県牟婁の一揆を初発として、翌七年の高知県幡多の一揆まで、西日本全域で16件あった。
農民の明治新政府に対する反政府運動である。
ほとんどの個所では警察が鎮圧にあたり、処罰者は九万九千人以上にのぼったそうだ。重要な働き手である若者が奪われることに対し反対の声が強くあがったのだ。

明治新政府の<維新>、学校制度の整備では貧しい者からの拠出金を求めることになり、地租改正では、税の画一化に不満が広がり、さらに四民平等政策の被差別部落の解放では、これまで通りの身分差別を主張する農民の一部の間に、部落民に対する差別と屈折した憎しみが広がった。

美作北部では、(広島・京都などでも同様の状況が生まれた)徴兵令反対という新政府に対する一揆が、被差別部落への攻撃という悲惨な結果を生んだ。
明治6年5月26日から6月1日まで、一揆を各地で強要した集団は、津山突入をはかる途中、263戸を焼き、51戸を破壊、18人の命を奪った。
血を抜き、税を絞りとる白い衣を着た男が、村に現れた。それを捕縛しようと一揆は広がったという。
風説が農民を駆り立てたのである。

その風説が流れた村を訪ねた。そして父と兄の命を奪われた家族が、50年後、大正11年に建立した鎮魂の石碑を見た。
秋の日暮れは早く、石碑が読み取れない。前書きと後書きが漢詩を挟む。
「荒れ果てた屋敷・五十年・恨み・浮雲・線香・寂しさ・蒼空・ため息・夕陽」そんな言葉が記されている。
私は何ともやり場のない怒りで身が震えるような思いがした。茫然自失。

「もうこの山を越えれば鳥取ですよ」という運転手さんの声で山を見た。
徴兵と差別への悲憤に木々は紅に染まった。

今日11月29日の『東京新聞』朝刊は、「チェルノブイリの祈り」で知られる作家アレクレシエービッチ(ノーベル賞受賞の昨年10月のブログ第2回でふれました)の来日と講演を報じ、彼女が「日本社会には抵抗という文化がないようにも感じた」と語ったと記す。
確かにそうかもしれない。書き加えれば<日本社会には抵抗という文化がないのではなく、抵抗の歴史に正面から向き合う文化がない>のだ。

津山の駅前で、名物のホルモン焼きでロックの焼酎を飲んでいたら、その夜に下関に着けなくなった。
ふくに未練があったが、姫路のしょうが汁のおでんにぬる燗、これがなかなかいける。

翌日、昼に下関。
佐藤泰正先生(先生の訃報は第10回ブログで触れた)の一周忌。
教会の司式は自由学園出身の竹田大地さん。奇縁ともいうべき出会いであった。

2016年11月29日  渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

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