第55回 <嫌>『忠臣蔵』観劇会と吉良吉田/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第55回 <嫌>『忠臣蔵』観劇会と吉良吉田/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第55回 <嫌>『忠臣蔵』観劇会と吉良吉田

2016年12月17日

12月18日国立劇場で「仮名手本忠臣蔵」の観劇会。参加者は、リビングアカデミーの一般参加者を含めて58人。
観劇会の2週間ほど前には、教室で「忠臣蔵」の予習、講義。この時の参加者も、50名を越えた。

参加者が多いことは、もちろん、企画者として嬉しいことなのですが、ちょっと複雑な気持ちがあります。
「忠臣蔵」は、私の中で何だか妙についていけないようなわだかまりが残ってしまう演目だからです。

「忠臣蔵」のメインテーマは復讐劇です。主君の仇を討つという忠義の物語です。敵を討つという行為の中で暴力が是認されているテーマです。
<ここには日本人の心がある>などと聞いたら、背筋が凍るような嫌悪を私は感じます。
それでもなお「忠臣蔵」を見に行きましょうと誘ったのです。

主君浅野内匠頭長矩(ながのり)の江戸城における吉良上野介義央(よしひさ)傷害事件(1701年4月)により断絶された赤穂藩の浪人たちが、被害者であり事件当事者である吉良義央を集団で殺害するというテロ行為にも等しい不法行動「赤穂事件」が起きたのは、1702年12月14日です。

戦後70年を経た今の東京より、その当時の江戸は泰平気分だったに違いありません。何しろ動物虐待をすれば牢屋に即刻放り込まれるといった5代将軍綱吉時代だったのです。戦争なんて、100年近くも聞いたことも見たこともないのです。

そんな時にこのテロ事件は起きたのです。
そして多くの犠牲者が生まれました。事件への怒りよりも、多くの犠牲者への同情が波紋を呼んだのです。

愚かな主君の衝動的行為によって生活を奪われ、テロに走らざるを得なかったキャプテン大石内蔵助にも、その家族にも。仇討チームに参加した人にも、参加しなかった者にも。悪人のごとく仕立てられた人たちにも悲しみは広がったのです。
それらの人物を多様に描くことによって、演劇「忠臣蔵」が生まれたのです。人間を見る文学力がここにはあります。

もちろん、観客以上に、役者はそのことを知っているのです。
今回上演の九段目「山科閑居」で加古川本蔵を演じる松本幸四郎は、11月26日の毎日新聞夕刊で、「忠義の為に命は捨てないが、子供のためには捨てる。封建時代によくこんなことを考えたと思います。そこに主題を絞ってつとめます」と。

加古川本蔵は、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で刃傷に及んだ時に阻止した多胡外記がモデルとされる人物。
芝居では悪役。本蔵は虚無僧姿尺八を引きながら登場します。
本蔵の娘小浪は、大石の息子主税と婚約中。敵同士の親を持つ恋仲です。仇討に行く前に、つまり命を捨てに行く前に、主税と小浪を添わせ、自分の命と引き換えに主税に吉良邸の絵図面を渡すという場面。主税に討たれる直前の台詞です。

何よりも大切なのは子供なのだ。仲間は宝かもしれない、裏切ることは出来ない、しかし子供はわが命なのだ。命のために命を捨てる。

日常を一気に破滅し、忠義という美名が時代の波に押されて悲劇を生む。その波にあらがうように人は小さな幸せを望みます。それは時代を超えます。
忠義に愛国心を求め、悲劇を仇討の勝利と呼ぶような観客が江戸時代以来のロングラン「忠臣蔵」を支えているのではありません。
折り重なる悲劇の人生を『仮名手本忠臣蔵』は語り継いだのです。
私は団結の生む悲劇をもっとも嫌います。加古川本蔵の尺八にそれを聞いてほしいのです。

吉良上野介義央像

名古屋での講演の後、西尾市の吉良吉田に駆け足で寄った。

この地で吉良上野介義央の評判はまことに絶賛。新田開発・治水工事に采配を振るった名君です。
古代から豊かな所だったのでしょう。古墳の側の資料館の入り口に、領内を赤馬に乗って視察する吉良上野介義央の像がありました。

知多湾の夕暮れでワンカップを飲み、討ち入り後断絶させられ、諏訪に流された、吉良義央の息子(養子)、義周(よしちか)の悲惨な行く末のことを考えていたら、隣町の一色町に行く時間が無くなった。一色町は、うなぎ出荷量日本一。うなぎの味も絶品だそうだ。無念に残念が重なった。

2016年12月17日  渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

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