第56回 迎春「含綬鳥」に寄す「養之如春」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第56回 迎春「含綬鳥」に寄す「養之如春」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第56回 迎春「含綬鳥」に寄す「養之如春」

2017年1月1日

涵之如海 養之如春
之を涵す海の如し、之を養う春の如し。

新潟の会津八一の記念館を訪れた際にこの言葉を知った。八一はこの言葉を好み額にしていた。
後漢の班固の一文(『漢書』巻一)である。
涵は、ものをひたすの意。
之の意味は漠としている。人生などと置き換えても、教育などと置き換えてもいいかもしれない。
之に如何なる言葉をあてはめてもいいであろう。

私は、「之」に「老」をあててみた。
若い時は、荒波にのまれるようなことがある。海原で苦しみもがくこともある。だが、それが滋養となって今の「老」があると思いたい。
大海にひたりながら時を待つこともある。寛容の精神。涵養の心構えと云ってもいい。
老いは、秋に喩えられることが多いような気がするが、春を待つ老いがあってもいい。
老いてもなおゆったりと成長を促すような春の陽光を待ちたいものだ。

「養之如春」は、井上靖の座右の銘であった。
エッセイで「春の光が万物を育てるように、凡そ人生の事柄というものは気長にのんびりやるべきである。一朝一夕にそれを育て上げる態度をとるべきではない。愛情を育てるにも、子供を養育するにも、病気を直すにも仕事をするにも、宜しく春の光が万物を育てるが如くすべきである。」と記している。

含綬鳥

今年の書初めには、瑞鳥としてよく知られる正倉院文様の「含綬鳥」(がんじゅちょう)を写し、画賛にこの言葉を書くつもりだった。
老春にハッピーバード。我ながら妙案だと思った。

奈良の古梅園では、初めてふれた龍涎香(クジラの糞、腸内の結石)に興奮し、身の程知らずの墨も買った。帰りの新幹線では、独り蘊蓄にすっかり酔いがまわる。赤間硯を下関の堀尾さんに頼もう。広島土産の熊野筆も引き出しの隅にあるはずだ。紙も・・。
ところが、家に帰ると、この墨がない。又どこかに置き忘れたのだ。
30年ぶりの書初めへの思いもすっかり薄れ、元の自分に戻った。

旧年は、カメラ・パスポート・財布などなど、物忘れをして人に迷惑をかけた。
今年こそは、物忘れをしないようにしたいものだが、年を取ればますます物忘れがひどくなるだろう。しかし、それもままよ。角打ちの一杯に微醺を楽しみ、大切な事が何かを忘れずに養老の春を迎えよう。ゆったりと。
旧年中はいろいろお世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2017年1月1日 渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

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