第65回 恋は孤悲「夜は短し歩けよ乙女」/学部長ブログ - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

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第65回 恋は孤悲「夜は短し歩けよ乙女」

「万にいみじくとも、色このまざらむをのこは、いとさうざうしく、玉の盃の底なきここちぞすべき」(『徒然草』第三段)

徒然草第三段は、男たるもの相応の恋愛体験がなければひどく物足りない男になるものだといった恋愛の勧めのような書き出しで始まる一章です。「色」を情趣などと訳している場合もありますが、私ははっきりと「好色」つまり、恋愛体験を云うのだと思います。恋愛体験のない人(この場合は、作者兼好の立場で男性の意味でしょうが、広く女性も含んで考えていいでしょう。)は、「さうざうしく」感じると云うのです。「さうざうし」は、あるべきものが抜けているような、物足りない気持ちを示した表現です。皆さんが知っている古語ですね。現代語「騒々しい」とは異なった意味を持つ重要基本単語です。

古語の「さうざうし」で思い出したのは、2013年に公開された新海誠監督のアニメーション映画『言の葉の庭』で使われていた、「『愛』よりも『孤悲』のものがたり」といったキャッチコピーです。

「孤悲」は、万葉集で使われている表現です。「さうざうし」は、物足りなさを求める心情ですが、その裏にあるのは、求める対象と共にいないことへの悲しさや一人でいることの寂しさです。『万葉集』では、<恋>に対して、<孤悲>と云う表現がしばしば使われているのです。
「恋は闇」ということわざがあります。恋愛に夢中になると、人は理性を失う。「Love is blind」の意味で使われますが、恋愛は暗闇の中で疲れ果て濡れしょぼる孤独の悲しみでもあります。万葉人の感性は、その悲哀を感じ取り「孤悲」と表現したのです。

『言の葉の庭』は、靴職人を目指す十五歳の少年と心に傷を持つ年上の女性との恋物語です。ここでは、最新のデジタル映像が描き出す青春の恋と万葉人の恋心がみごとに交響しています。
女性は、小止みなく降る雨の公園(新宿御苑の東屋)で少年に歌を寄せます。「雷神(なるかみ)の少し響(とよ)みてさし曇り 雨も降らぬか君を留めむ」(柿本人麻呂)<雷が鳴って曇り空になったら雨が降り出して、あなたをここに引き留めてくれるでしょう> そして、少年も歌を返します。「雷神の少し響みて降らずとも われは留らむ妹し留めば」(同上)<雷が鳴って雨が降らなくても、僕は君が居てくれるなら僕もここに居るよ。>

万葉人は歌います。「明日香河川淀去らず立つ霧の思ひ過ぐべき孤悲にあらなくに」(山部赤人)と。よどみは、人生と云う大河で混濁する青春の一コマかもしれません。青春の恋は、淀みの上で立ち去らずにいながらも、やがて思い出として消えてしますう霧のようなものかもしれません。

『言の葉の庭』には、アニメ映像でなければ表現しえないであろう雨の美しさがあります。六月の木の葉を濡らす雨。池で波紋を繰り返す雨。都会の公園(撮影シーンは新宿御苑)の東屋の二人を囲む雨。
雨は恋の仲立ちです。恋の行く方が「孤悲」であることに変りはありません。

『徒然草』第三段は続きます。
露や霜に濡れて着物がくたくたになるまで恋のためにさまよい歩き、親の意見、世間の批判を気にかけて心は余裕をなくし、ああでもないこうでもない「あふさきるさ」と心を乱す。そんな恋愛ではあるが、思いを遂げられず独り寝することが多く、安心できないでいるのも、それはそれで「をかしけれ」と記しています。
恋愛は不安です。「あふさきるさ」、あれこれと思い悩む心は、いつの世でも変わりありません。他人を愛することは、親から離れることです。他者の血を求めることは、親子の血を離れることです。自分の身の回りの多くは、恋愛が発動しようとする時にやさしい目を向けることはまずないでしょう。親も世間も、結婚式にはおめでとうと言うでしょう。しかし、愛し始めた若いカップルに対して、まして、禁じられた恋の仲であれば、親は「諌め」、世間は二人を非難するにちがいありません。それを徒然草の作者兼好法師は、「ひとり寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ」というのです。つまり、思い悩むそのことを「をかし」というのです。
「をかし」の訳が難しいですね。この語が出てきた時に対照的に考えなければならない語は「あはれ」です。二つの表現はともに<趣深い>と現代語訳すれば解答は済むのですが、根底の意味は大きく違っています。「をかし」は、客観的で対象を突き放した感情です。それに対して、主観的に対象と自分を重ね合わせたのが、「あはれ」です。「をかし」は可笑しです。滑稽味と云ってもいいでしょう。「あはれ」に当たるのは、哀れです。「あはれ」が情緒的であるのに対して、「をかし」は、理知的です。
「かわいそうに」「あわれなことよ」といった同情を求めて恋愛は生まれません。人はそれぞれの個性を持っています。「オンリー ワン」です。恋愛は、人がそれぞれの個性を持つと同様に、否、それ以上に各々が色彩を持っているのです。「オンリー ラブ」です。友情は「あはれ」なしに、成立しないかもしれません。恋愛は「あはれ」を、同情を拒絶します。

フランスの小説家スタンダールは、『恋愛論』で、情熱恋愛・趣味恋愛・肉体恋愛・虚栄恋愛などと区別し、自分の愛する対象を美化する結晶作用(クリスタリザション)が恋愛によって生じると云っています。
「どうしてあんな人を好きになったの」、「欠点だらけじゃないか」。そう云われて、言い返すことができなくても、胸の中で「あの人には誰にもわからないこんないい所があるんだよ」と自分にささやき続けるのが、恋の美化作用です。他者から見れば、それは可笑しなことかもしれません。

滑稽かもしれません。坂口安吾は『恋愛論』で次のように云います。
「人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。」
恋には虚構の物語の「をかし」さがあります。<クリスタリザション>です。
4月7日に封切りの『夜は短し歩けよ乙女』を観ました。累計百三十万部のベストセラー、森見登美彦の青春ファンタジーラブストーリー小説の劇場版アニメ化されたものです。好奇心の赴くままに京都市内を駆け巡る女子大生「黒髪の乙女」と、ナカメ(なるべくかのじょのめにとまる)作戦実践中のクラブの先輩の奮闘を軽快なタッチで描いたものです。

京都の古本市の光景、売り立て会に登場する稀覯本のことなど、恋愛物語のスピードのある展開以外にも興味を感じて楽しく見ました。
テーマをあえて探すようなことは野暮なのかもしれませんが、解説本によれば、「人と人のつながり」です。この一夜の時間と京都という空間を見つめる作者の視点は「をかし」です。兼好法師の思い悩んだこととも遠い感性ではありません。恋の断片に、「孤悲」をそして時に「をかし」を読みほどく。それは、人間らしさとは何かを問うメッセージです。
・・・と云うようなことを、学園の感性教育の講義では話してみたいと思います。受講生は『言の葉の庭』・二つのアニメを時間があれば見ておいてください。

追記
ラストシーン二人のデイトの喫茶店「進々堂」です。「々」の看板がかすかに見えます。自由学園の先輩が関わっているパン屋さんです。美味しいフランス仕込みの素敵な日本的!!パン屋さんです。和菓子屋ではありません。道徳の教科書が文部省に忖度してパン屋さんを和菓子屋さんに変える!!!戦争中にもそんなことがあったそうです。念のため。

2017年4月11日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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