第67回 「公明正大」大岡忠相と石川総茂 /学部長ブログ - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

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第67回 「公明正大」大岡忠相と石川総茂 

『東京人』6月号に、赤坂人物散歩と題して、映画やテレビでお馴染みの大岡忠相のことを短く書きましたが、昨今の世相を見て、もう少し書き加えたくなりました。

公明正大。
この頃この言葉が聞かれなくなりましたが、この言葉がぴったりする人物が大岡越前守忠相です。『徳川実記』などで、大岡は「おほやけなる器量」と称賛されています。これは「公明正大な人物」と云う意味です。


大岡越前(都立中央図書館)

大岡が八代将軍吉宗に抜擢され、幕閣の中心人物として活躍することになったのも、<公明正大>の姿勢がかわれたからでした。

吉宗が、道理にかなった私心のない裁きに感心したのは、忠相、36歳-正徳2年(1711年)。当時、大岡は伊勢山田の奉行でしたが、松阪山田領と紀州藩の間には長年係争が絶えませんでした。代々の山田奉行は、紀州藩主吉宗の威光を恐れ決裁していたのです。

役人は今も昔も権力者の顔色を窺っていたのでしょう。

ところが、大岡は違いました。その裁きは道理にかない、私心のないものでした。吉宗はそこに感心し、将軍となった翌年、享保2年(1717年)大岡を江戸南町奉行に任命したのです。

<忖度>を禁じ手とした同時代の人物をもう一人あげます。

大岡と同時期若年寄に任ぜられた石川総茂です。総茂は寺社奉行時代、吉宗夫人に関わる訴訟を取り扱い、他の奉行が大奥に阿って判断しようとしたのに対して、公私混同の非を説き、正論を主張しました。それが吉宗に認められたのです。

石川総茂は、伊勢神戸藩から常陸下館藩へ3000石の加増移封を命じられましたが、その時、伊勢神戸藩の領民からは藩主交代を反対する嘆願書があったそうです。総茂の人徳と善政を伝える話です。

江戸時代、大名であれ、将軍であれ、自分の妻が夫の権力を笠に着るなどということは、許されることではありません。
大奥が政治に口をはさむことは御法度です。大奥が関与すると政治は乱れました。

大岡は吉宗の意を受け、罪科の連座制の廃止、水責めなど拷問の罪科の軽減にも努めます。水責め復活などを声高らかにうたいあげる世界一の権力を持つ大統領の姿勢とはだいぶ違います。

飢饉対応で、米相場に取り組み、大商人の自由経済的発想を封じ込めるなどして、倹約令も厳しくします。結果、幕臣への禄米の支給にする困ったことがありました。町中には、「大岡(おおく)食えぬ、たつた越前(一膳)」など云う落首も出たのだそうです。これも幕臣、官僚の不満から出た言葉でしょう。

「いろは四十八組」の町火消の組織化もはかっています。武家屋敷はほとんど瓦屋根になりました。町家は依然としてトントン葺き(木っ端屋根)の屋根でしたが、厳しく天水桶を置くように命じたと云います。

小石川の養生所の設置で貧しい人たちに光を当て、又、青木昆陽に命じて甘藷の栽培なども奨励します。

後に伝わる大岡政談は、虚飾のものであり実話ではありません。しかし、これは人情味にあふれた公明正大の大岡裁きを渇望する庶民の人気が根強いものがあった証左です。

暴れん坊将軍吉宗の再来や大岡裁きを求めるなどと云っているわけではありません。今、あまりにも公私混同に流れ、公明正大なる判断が失われているように思えてなりません。

 

2017年5月2日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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