第69回 「自由学概論」講義ノート/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第69回 「自由学概論」講義ノート/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第69回 「自由学概論」講義ノート

2017年6月6日

以下は最高学部6月7日の講義ノートです。

現代の自由という言葉は、明治時代以降の英訳の影響が強いものです。
外来文化的な響きを持った自由です。
明治以降、自由という言葉に付随して、多く使われる対の表現は、責任です。自由な行動には、各自が責任を有さねばならないといった使われ方です。自由を権利とするならば、義務として責任がともなうといった考え方であり、明治20年代の日本帝国憲法の発布頃の、法律の範囲内での自由を求める権利と国民の義務の行使といったことと関連があります。同じ頃の自由民権運動でも自由は自主・自立などと関係しながら使われました。FREEDOMより、LIBERTYといった、政治的自由を指しているといっていいでしょう。自由民主などと云ったイメージは、政党の名前に使われていたほどですから、かなりプラスイメージです。
自由民権運動の指導者で、お札の図案にもなった板垣退助は、襲撃を受けて下腹部に傷を負いながら、「板垣死すとも自由は死なず」と叫んだと云います。明治以降の自由の象徴と云えば、板垣退助と云うことになるかもしれません。

自由という言葉が、明治時代以降に広まった言葉のように、理解されることも多いようですが、自由は、奈良時代の終わりごろから、江戸時代までもよく使われた言葉です。

『徒然草』六十段に、芋頭を好んで、「しろうるり」などと呼ばれた大変個性的な僧侶盛親の話があります。近代思想を代表する自由人が板垣退助であるとすると、古典文学の世界でまず思い出す自由人と云えばこの人でしょう。
この坊さんは、容貌もすぐれ、力も強く、大食い。字はうまく、弁も立つ、寺の中で重んじられていましたが、「世を軽く思ひたるくせ者で、よろづ自由にして、大方人に従ふといふことなし。」また、食事の作法などもまったく無視し、人の言うことも聞き入れない、「世の常ならぬさま」であったと記されています。
こんな振る舞いだったけれども徳が高かったので、皆に許されて人に嫌われることもなかった。と、話は終わるのですが、盛親のイメージは、放漫、気まま、我がままと云ったところです。
古典文学の自由には、責任をともなう自由、又自立と云った厳しい倫理観を求める考え方は、内包されていないようです。

江戸時代の用例として、面白いものには、自由を便所と同じ意味で使う用例などもあります。
『傾城色三味線』という浮世草子には、「自由に立つふりして勝手に入り」などとあります。ちょっと手洗いに行かせてもらいますと云って勝手口の方へ引っ込んでしまう、嫌な相手から逃げる常套手段と云ったところでしょうか。
「ちょっと自由に行かせてもらいます」とはなんだか今でも使えそうなしゃれた言葉です。
どうしてそんな意味につかわれたか今一つ釈然としませんが、お便所ほど、自分が一人になって自由になれるところはないということでしょうか。お便所は、完全プライベートエリア。お便所ほど、勝手気ままになれるところはないのかもしれません。
学生の頃、家庭教師をしていた子供がまったくの勉強嫌いでした。私が行くと、ほとんど便所に居て教えることが出来ませんでした。今、その子がどんなにか、自由を求めていたのだろうなどと、思うと少し心が痛みます。

17 世紀頃の日本でどのような言葉が使われたかを知るための辞書は、ポルトガル人が日本にやって来た時に作った『日葡辞書』です。これを見ると当時の日本人が基本的にどのような意味で自由と云う言葉を使っていたかがわかります。
『日葡辞書』には、
「Iiyu ジユゥ 自由 自由自在に振る舞う。自由に意のままに行動する」
「Iiyuni ジユゥニ 自由に あることを自由にてきぱきと話す、または、遠慮なく気ままに語る」などとあります。
自由の基本的な意味は、気まま、遠慮なく、自在に思うままと云ったことになるのです。
『浮世風呂』に、「指ものは、ヲット来たりて、自由ざんめへに引替、買立るし」などあります。かんざしを自由三昧に取り換えたり買ったりした我がまま女だというのです。どうも、江戸時代の自由はプラス思考に使われていないようです。本当の意味の自由思想が日本に根付かないのはこの辺りに一因があるのかもしれません。

不自由と云った表現の方が、古典語の自由の原義を残しているようです。
思うようにならない、気ままに行動できないといった意味が不自由の意味です。不便、不都合、自分勝手にできないなどと云ったニュアンスもあります。
私は、ここでちょっと立ち止まって、不自由であることを考えてほしいと思っています。満ち足りた状態から、不便、不都合を考えてほしいと思うのです。

不自由をすすめた人物がいます。徳川家康です。
家康は、死の1年前、秀忠に向けてこの遺訓を残したといわれる。静岡駅の石塔に刻まれたり、又多くの人に知られた家康の伝承説話の一つです。
書き出しは、有名な「人の一生は重荷を負うて道を行くがごとし。」とあり、続けて
「急ぐべからず不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮した時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒は敵と思へ。勝つことばかり知りて負けることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」とあります。
不自由を忘れるな、不自由を日常の中に取り戻せ、さらなる欲望が起きたら、困窮の原点に立ち戻れ、ある時には我慢しろ、我慢が長い平安を生むのだ。相手に怒りを持って接してはならない、心の中の怒りこそ目に見えない本当の敵なのだ。そして、勝った時の喜びに浸って、敗けることがなければ、その驕りの心は自身の心中を損なうことになるであろう。ある時には負けて、自分に対して猛省を求めよ、他者を責めてはならない。不自由で物事が十分に及ばないとしてもそれは、過大な満足に勝るものである。家康はこのように言っているのです。

東日本大震災で我々は、多くの物を失いました。原発事故は、その内在的原因が地震前に既に存在していたことも確かです。積み重ねてきた原子力の安全神話に私たち自身が踊ってきたことも事実です。だが、引き金になったのは地震です。それは、人災であるとともに、自然災害です。
未来は、人間と自然の相克の中で、天災への対応策が見つけていくに違いありません。科学は、自然の脅威を乗り越え、共存の道を探し出すでしょう。私は、今までの目まぐるしい科学の進歩の足跡を称賛する者です。また、復興に立ち上がる人々の営みにも、勇壮な胸の高まりと共感を覚えます。
私は自分が楽観主義者であることを知っています。しかし、私は、悲劇が置き去りにされていることに、強い憤りを覚えます。原発事故の後、この日本に、漆黒の闇の町が存在するのです。原発事故による立ち入り禁止区域であり、制限地域であり、警戒地域です。
太平洋の海の夜の闇がそのまま陸地に続いたような町が、息をすることも出来ずに隣に存在するのです。私たちは、勝手気ままに自由を謳歌していいのでしょうか。
気ままな自由を求める自分に、私は不自由をすすめて見たいと思います。

2017年6月5日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

カテゴリー

月別アーカイブ