第87回 謹賀新年「犬も歩けば棒に当たる」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第87回 謹賀新年「犬も歩けば棒に当たる」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第87回 謹賀新年「犬も歩けば棒に当たる」

2018年1月3日

今年の書初めは、歳末、孫の鉄棒を見た時、「逆上がり元年」と決めていました。老境からの挑戦の意気を示そうと思いました。
例年の如く奥日光で越年。元旦、時来たれりと、40年ぶりでスキーに再挑戦。妻の「止めたら」の声をしり目に子供らの背中を追い、小学生の頃駆け上がった函館五稜郭の坂を想い出し、「なんだ坂こんな坂・・」と順調な滑り。しかし、30分後あえなく転倒。胸を強打、しばし息も出来ず、スワ‼ 肋骨骨折かと思いきや、太鼓腹胸を守り、サロンパス十数枚を貼る軽傷で終わりました。
吹雪の露天風呂につかりながら、書初めの標語、一日にして変更。「君子危うきに近寄らず」などと考えたあげく、「犬も歩けば棒に当たる」としました。

このことわざ、江戸時代から二つの解釈があります。一つは、あまり積極的に物事を行えば、犬が棒で撃たれるように災難に出会うというもの、もう一つは、目的もなく出歩いていれば何か幸運に出会うものだと云う意味です。後者の棒の意味、何故幸運が棒と結びつくのかは分かりません。棒はあまりいい意味には使われません。「当たる」の方に意味があるのかもしれません。棒は大きなものの喩えでしょうか。「棒ほどの願い」とか「針小棒大」とか。大きな当たりがあると云うことでしょうか。
いずれにしても、災難に遭うか、幸運に出会うか、と云う、まったく反対の意味が同じことわざから生まれているのが面白い所です。

「聞き句」という句があります。鑑賞者によって二つの解釈に別れると云うものです。例えば「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」という其角の句があります。どこで切ってよむかによって違いが生まれます。又、吉原が夜間営業を許され灯火に鰯油を惜しげもなく使った頃を背景にしたことも考えなければなりません。
煌々と照る月夜苦界に身を沈めた遊女の闇をこの句に見るのか、不夜城の吉原の光を闇夜に見るのか、聞き手(句に対する自分の身の置き場)によって違いが生まれるのです。(この句のことは、昨年7月刊行『江戸遊里の記憶』(ゆまに書房)の後書きでも触れました。)

もう一句、よく知られた芭蕉の句です。「秋深し隣は何をする人ぞ」。大坂での芭蕉最晩年、病の床にあり句会に参加できない挨拶が込められていることが背景にありますが、この句に、懐かしみを込めた隣人を感じるのか、それとも隣人との距離、孤独を感じるのか、それは大げさに言えば人生観によるものであろうと思うのです。

今年も、犬のように歩き回りたいと思います。好奇心だけはまだ負けないつもりですこの頃死んで神様への土産話に何を持っていこうかと考えます。「こんなに楽しかったよ。いい人がいっぱいいましたよ。」、これまでは、よい話、感謝の話を持っていこうとばかり考えていましたが、そればかりではあるまいと云う気もします。「こんな不幸がありました。こんな苦しみが続いています。」こんな報告も必要な気がするのです。老人の繰り言、後悔の有効性を思います。楽しい景色、嬉しい景色ばかりではなく、悲しい景色、怒りの景色もしっかりと見届けておきたいと思います。迷いながらも歴史へのポジションをまとめていきたいと思います。(今年3月に婦人之友社のお世話で、『祈りの海へ』(仮題)を刊行予定です。)
とは言っても、無理は出来ません。何時まで太鼓腹が我が身を守ってくれるとは限りません。それに、3キロ減量は、昨年、痛風の時の医者からの冷たくも暖かな忠告です。

災難に遭うか、幸運に会うか、とにかく歩かねば始まらないようです。
74歳に向かい、今年も歩き続けようと思います。よろしくお願いいたします。

 

2018年1月2日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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