第103回 江戸助平主義-吉原と刀/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第103回 江戸助平主義-吉原と刀/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第103回 江戸助平主義-吉原と刀

2018年7月12日

江戸<助平主義>、太平を好きこのむ<好け平>根性の話です。

幕府に最初の吉原遊郭設置の請願書が出されたのは、慶長10年(1605年)です。そして実際に5か条の条件付で遊郭の設置が許可されたのは元和4年(1618年)です。場所は、今の中央区堀留2丁目あたり、当時の日本橋葺屋町の東隣です。元吉原と呼ばれている所です。今浅草の近くで吉原(千束4丁目周辺)と呼ばれている新吉原は、明暦2年の大火の後に都市計画の一環として出来た場所です。

今年は元吉原設置許可から400年ということになります。雑誌などでも吉原の特集が予定されています。

もちろん吉原の歴史には明暗があります。<功罪相半ばしている>などと云うものではありません。吉原の歴史の罪は根深いものです。罪8分でしょうか、9分でしょうか。しかし、残された1分であってもその文化には見るべきものがあります。

江戸時代、日本で最大の遊郭であった吉原では、武士が刀を持って入ることが禁止されていました。もっとも高い階級に属していた武士にとって、刀は何時も持っていなければないものでした。刀は武士の魂であるとも言われています。吉原は喧嘩の多い危険なところでもあります。何故そんな大切なものを自分の手から放したのでしょうか。
その理由は、<吉原>では、武士であることが誇りにならなかったからです。権力を振りかざすことは、もっとも野暮だったのです。野暮(やぼ)というのは、心が洗練されていないという意味です。又野暮のことを瓦智(がち)ともいいます。瓦のように固くて柔軟性がないという意味です。野暮は女から嫌われます。

江戸時代は封建社会ですから、厳しい身分制度がありました。町を歩けばすれ違う人は互いに身分差を意識しました。武士は、農民より上、農民は大工さんより上、商人は大工さんより下でした。社会の階級社会と異なった世界が遊郭にあったのです。
一般的に云うならば、身分・階級の差別によって規定されていくのが文化です。日本において形成された遊里文化は、遊郭という限定的な場所によって作られたものですが、階級を越えなければ成立しなかったのです。王様やお姫様の好みが庶民に流行することはありません。王様は美味しいものを食べ贅沢な暮らしをしている。そんな感覚はありません。

刀を持っているなどと云うことは、男にとって洒落ていないのです。

しゃれ、というのは、水にさらす、日にさらすなどと同じ意味です。不要なもの、又、目立つようなものは持たない、派手なものを持たない、新しいものは持たないというのが、洒落た男なのです。男は派手な格好をしてはいけないのです。あくまで地味なのです。着物の色も黒か茶です。黄色、赤などは考えられません。少し派手な模様であれば着物の裏に付けたのです。

日本の文化では、武器を持つことを恥ずかしいと感じたのです。鉄砲を作る技術を持ちながらも、江戸時代には、鉄砲は武器として発展しませんでした。火縄銃が携帯に不便だったこともあるのですが、300年という世界史的に見ても異例の長さを平和に暮らしていた江戸時代の人々にとって、武器は不要だったのです。刀を持つことは野暮であり、鉄砲を持つことは卑怯であったのです。一度も使われていない刀が美しい名刀として珍重化され美術品となったのです。刀を抜かず相手を屈服させることが最高の武士道であると記しているのは、世界でもっと多く翻訳されている日本の思想書「武士道」(新渡戸稲造著)です。

吉原で刀を持たないことは、男のダンディズムでもあります。吉原は、平和を愛する日本の文化の感性の誕生地でもあったと思います。

吉原のスターは遊女です。遊女は社会の中で最下層の人です。もっとも悲しい現実を生きた人です。その寂しい悲しい人たちが江戸の文化の流行の先端にいたのです。

江戸時代の文化を作ったのは豪華な衣装を来たお姫様でも、強い権力を持った武士でもありません。文化を支えたのは、江戸の庶民、大衆です。庶民が中心となって作った、日本の文化の助平、平和主義(もちろん金が物言う世界のことですが・・・)の欠けらが吉原の片隅で光っていたのです。

 

2018年7月12日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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