第122回 漱石「三四郎」そして羽仁吉一「自由なれ、正直なれ、大膽なれ」 -2018年3月卒業礼拝におけるメッセージ-/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第122回 漱石「三四郎」そして羽仁吉一「自由なれ、正直なれ、大膽なれ」 -2018年3月卒業礼拝におけるメッセージ-/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第122回 漱石「三四郎」そして羽仁吉一「自由なれ、正直なれ、大膽なれ」 -2018年3月卒業礼拝におけるメッセージ-

2019年3月20日

明治41年(1908年)9月1日から、東京朝日新聞・大阪朝日新聞で、新たな新聞小説が始まり話題になりました。夏目漱石の小説「三四郎」です。
その第1回、冒頭部分には、当時の青年が置かれた状況が描写されています。

三四郎が熊本から東京へ向かう汽車の中。爺さんの話です。
爺さんは息子が日露戦争で死んだという話の後で「いったい戦争はなんのためにするのだか解らない。あとで景気でもよくなればだが、大事な子は殺される。物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の好い時分に出稼ぎなどというものはなかった。みんな戦争のお蔭だ。」
そして、汽車の中であった広田先生(ここではまだ名前は明らかにされていませんが・・)は、「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。」と記し、そして、三四郎が「日本もだんだん発展するでしょう。」と弁護すると、先生ははっきりと断言します。「亡びるね」と云います。三四郎は「熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる。三四郎は頭の中のどこの隅にもこういう思想を入れる余裕はないような空気の裡で生長した。」と述べています。
今も読み継がれる『三四郎』の世界が、社会状況を反映した<反戦>意識によって書き始められていることは強く意識しなければならないことです。戦勝気分に浮かれた明治38年(1905年)の日露戦争終結から3年後のことです。

奇しくも、明治41年9月1日の同じ日に、羽仁吉一先生(以下敬称を略します)が若者への熱い思いを、雑誌『青年之友』に記しています。『青年之友』は、1907年、羽仁吉一が、羽仁もと子の弟松岡正男と共に刊行した、青年のための教養雑誌です。
自由学園創設1921年の3年前のことです。吉一の胸中に、この学園創設への思いがあったことは疑いのないところです。「青年之友」に記した思いは、そのまま自由学園創設の思いであったでしょう。
それは「今の青年へ一言」と題したものです。
「青年の思想は過激であって当然であると述べ、「しかるに、今の青年はどうである乎。彼らに過激とか極端とかいう分子は薬にしたくもない。彼らは青年といわるべくあまりに平凡である、尋常である。彼らは若き老人である。」と述べ、「理想は青年の生命である。理想のない青年は香のない花のようなものである。」「かくの如き無理想の俗青年に依って、形づくられんとする次の時代は禍なるかなである。」
今の青年は、理想を持っていない。日露戦争後の青年は理想を持っていないというのです。

そしてまた、翌月10月1日には、「品性とは何ぞや」と題した文章を次のように結んでいます。
「いわゆる品性の人とは、謹直にして、事務に忠実、長者に柔順というような、駆使し易く駕御し易き猫の如き人物をいうのではない。謹直とか、忠実とか、柔順とか、そんな事は枝葉のまた枝葉である。品性の修養とは、そんな枝葉の事をいうのではない。モット奥深いところに、我々の生々活動の基礎を置こうという努力を指すのである。」

時代は、近代化の中で社会の秩序に柔順であり、真面目であり、忠実な構成員を求めていたのです。それに抗うような姿勢が品性のある人物であると羽仁吉一は考えていたのです。それはこの時代に彼が求めた理想の人物であったのです。過激とも思える羽仁吉一の檄は、この年1月1日に書かれたとされる「反抗の道徳を教ゆべし」の一文にも示されています。
「服従は美徳なるべし。されど反抗もまた美徳たることもあり。我らは時として大いに反抗するの義務を感ず。反抗者を以て直ちに謀反者なりと思惟するが如き思想は一掃せざるべからず。服従の道徳を教ゆるものは、同時に反抗の道徳を教ゆべし。」
<反抗は義務>であると云う表現は、強い意志を感じさせるものです。

羽仁吉一が、具体的に如何なる状況を感得して<反抗の道徳教育>を必要と感じたのかは分かりません。又、ここにあげる社会運動活動家と羽仁吉一が同じ歩調であったなどと云うものではありません。むしろ一線を画していたと考えるべきでしょう。それを前提に、前年、明治40年(1907年)の<反抗的>社会の動向を少しく拾っておきましょう。
1月 平民新聞創刊・2月 足尾銅山で鉱山労働者が職員と衝突大暴動・2月 治安警察法改正請願・4月 幸徳秋水「平民主義」(発禁)・6月 日本社会平民党結成(翌々日結社禁止)・11月 「社会主義綱領」発禁
自由民権運動が終局を迎え、新たな展開を模索していたのもこの時期です。<自由>は混迷していたのです。
1908年には、赤旗事件により、荒畑寒村、大杉栄、管野スガらが逮捕されています。1909年には、小山内薫が自由劇場を結成。6月には幸徳秋水らが、「自由思想」を創刊しますが、即日発禁となります。自由への弾圧の結果生じた、冤罪史上最大の悲劇1910年の大逆事件も書き添えておきましょう。

このような中で、羽仁吉一が次の文章を記したことに注目します。明治41年(1908年)6月1日『青年之友』掲載の「自由なれ、正直なれ、大膽なれ」と題した一文です。
「ことさらに我が性情を矯(た)めて世に応(かな)わんとする者あり。或はかくの如き手段を以て、人格の養成なりと解するものあり。謬(あやま)れるもまた甚だしい哉。我は我が與えられたるものの、世に応うところたるや将応わざるよころたるやを知らず、唯我はこれを発揮するに於いて、最も自由、最も正直、最も大膽ならんことを欲す。」

羽仁吉一は、反抗を義務として感じながら、「自由」が奪われ行く時世に悲嘆していたのです。権力によってその性情が矯正されていくのではないかと危機感を持っていたのです。正直とは、「正義」を守り、いかに自分の意志に真摯であるかということです。正直に真面目に愚直に生きろと云っているのです。そしてその行動は「大胆」でなければならないと云っているのです。飼いならされた猫になるなと云った品性論と同じ目線に立つものです。そしてそれは反抗の道徳と言い換えてもいいでしょう。

聖書は、「正義」について強く語ります。「神に従い正義を行うことは、いけにえをささげるよりも主に喜ばれる」(「箴言」21-3)生贄とは何でしょう。私には戦争で犠牲となった多くの人々に思えてなりません。
「自由」を守る戦いについても、「聖書」は語り継ぎます。
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。」(「ガラテヤの信徒への手紙」5-1)
イエスキリストの教えのもとで育った我々は、二度と自由な意思を奪われた奴隷になってならないのです。
しかし、それは容易なことではありません。勇気ある「大胆」さが信仰には必要なのです。使徒たちの声を聴きましょう。
「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕(しもべ)たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」(「使徒言行録」4-29)
「彼らの脅し」とは、誰を指しているのでしょうか。それは反抗を封じ込める権力です。

私は、羽仁吉一の「自由なれ、正直なれ、大膽なれ、」の言葉の中に、イエスの言葉を看取します。
明治41年10月、内村鑑三のもとに、前田多門・鶴見祐輔・森戸辰男・藤井武・三谷隆正・高木八尺(やさか)らの若者がこぞってその門をたたきました。その時期は定かではありませんが、明治41年に遠からず羽仁吉一がその中の一人であったことは確かです。
「三四郎」の連載が終わったのは、明治41年12月29日。その終わりはあまりに有名な場面です。絵画展の「森の女」という絵の前です。
『次郎だけが三四郎の傍へ来た。
「どうだ森の女は」
「森の女という題が悪い」
「じゃ、なんとすれば好いんだ」
三四郎はなんとも答えなかった。唯口の中で迷(ストレイ)羊(シープ)、迷羊と繰り返した。』
迷羊とは、「マタイによる福音書」18章10-14・「ルカによる福音書」15章3-7の百匹の羊の中で迷える一匹の子羊です。
三四郎が、口の中で繰り返した「子羊」は、彼が思慕する「美禰子(みねこ)」を指しています。また三四郎を含むこの時代の悩める若者を指しているのです。私には羽仁吉一の檄文ともいうべき熱い言葉は、悩める「三四郎」そして「美禰子」に対する熱いメッセージであったように思えます。そしてそれは、明治末年における同時代の若者へのメッセージであるとともに、今卒業し社会へ旅立つ諸君への、自由学園創立者の変わらぬメッセージであると信じます。

諸君「自由なれ、正直なれ、大膽なれ」そして理想を掲げよ。自らもっとも大切なものを自由に、正直に、大胆に守り抜いてください。
最後に一言祈ります。
「旅立つ若者に主の大いなる祝福がありますように。あなたの使徒は語っています。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」(使徒言行録」4-31)。あなたのもとにあって今巣立ちゆく彼ら彼女らが、あなたの聖霊に満たされた「自由学園」で与えられた優しき御言葉をこれから長く続く旅路で大胆に語り継ぐことができますように。自由学園は正直に生きるあなた方をイエスキリストとともに永遠に守ります。主イエスキリストの大いなる御加護が「自由学園」の行く手にありますように。主の平安が皆さんとともにありますように。アーメン。」

 

別記::新しい女性像である美禰子のモデル説の一つに「平塚雷鳥」説があります。平塚雷鳥が、羽仁もと子の教育に賛同しその娘を自由学園に入れ、又羽仁もと子が亡くなった時には実に心温まる弔辞を寄せたことはよく知られています。又、「三四郎」の名前については、早稲田南町の夏目家の近所に住んでいた陸軍幼年学校教授田中三四郎邸があり、その表札を見た漱石が主人公の名前を思いついたと云う話があります。そして、この田中家の次女が石垣あや子です。アメリカを活動基盤に一貫して日本の侵略戦争・軍国主義に反対を貫き、女性解放へも一石を投じた人物です。彼女は自由学園第一期生です。彼女と画家石垣栄太郎の記念館が和歌山県太地町にあります。栄太郎の絵は、アメリカの黒人解放運動を題材にしたものです。それは「三四郎」の作中で話題になる黒人開放の話と一致するものです。石垣が、「三四郎」をどれほど意識していたかは疑問です。しかし「三四郎」と云う作品に、自由学園の思想が少なからず影響を与えている事は書き記すに足りうることだと思います。

 

2019年3月20日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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