第149回 休校おすすめ読書2-『蝉しぐれ』/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第149回 休校おすすめ読書2-『蝉しぐれ』/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第149回 休校おすすめ読書2-『蝉しぐれ』

2020年4月8日

「蝉しぐれ」は、文庫版で約450ページ。多くのテレビドラマ・映画などにもなってきた。
藤沢周平による時代小説、戦後最高の恋愛小説という評価もある。

主人公牧文四郎は、物語に15歳で登場する。文四郎は、下級武士の子。貧しい下級武士の家に生まれた子供は、よほどのことがない限り貧しい武士のままだ。
江戸時代の武士は公務員、サラリーマン。文四郎の家は普請組。現在なら県や市役所の河川、道路の修理にあたる土木課、土木課の中でも、デスクワークではない。実際の工事の現場に立って指示を出す人だ。

文四郎が生まれた服部家は、120石で右筆(文書記録課)だが、文四郎は次男で家を継ぐことが出来ず、牧家に養子になったのである。牧家は、28石、身分は服部家よりさらに低い。文四郎と父の間に血のつながりはない。

当時の収入を現代に置き換えることは、難しいが、地方で1000石は大変な金持ちで2000万円以上の年収になろう。家老(今の公務員であれば最高クラスの部長でしょうか)クラスだ。食料は自給自足、住宅も支給されているからかなり豊かだ。
牧家はおそらく年収200万以下。貧しい家にもらわれた文四郎は、少しかたぐるしい所のある母親と仕事熱心な父親に育てられる。元気に剣道場にも、学塾にも通っている。剣道の腕前もなかなか、勉強はちょっと苦手。意地悪な友達もいるが仲間もいる。
文四郎は、北国の小さな藩のどこにでもいそうな少年だ。作者はその藩を海坂藩と呼ぶ。藤沢周平の故郷である山形県鶴岡市がモデルである。
運動系所属、クラブ大好き、友達と時々寄り道をして母親に叱られる中学生だ。隣の家には3歳年下の「ふく」という名の女の子がいる。小学校高学年、無口なかわいい子だ。

文四郎の身に突然悲劇が襲う。
父が、藩主の世継ぎをめぐる抗争事件に巻き込まれたのだ。
父の切腹と云う悲劇が少年を襲う。
悲劇が少年を襲うことは、現代も江戸時代も変わりはない。しかし、江戸時代、武士の少年の15歳は戦場に行く可能性を秘め、父の代役も務める。文四郎も、川の水があふれた時には代わりに出動もしている。15歳の少年の家を支える意識は今とはもちろん違うが、大切な人を早くに亡くした者には、文四郎の思いは痛い。
この場面、私は痛切に父を思った。
「蟻のごとく」と題された、全21章の第6章、前半部のクライマックスとも云うべき章だ。前の章は「黒風白雨」、黒風は、暴風、白雨はにわか雨。悲劇は黒風白雨のごとく襲ってきたのだ。
文四郎は、自死直前の父との最後の対面の時、「父上、何事が起きたのかお聞かせください」と問いかける。しかし、父はそれに答えず。
「文四郎はわしを恥じてならん。そのことを胸にしまっておけ」とだけ言い残す。
<父の死を恥じてはならない>
寺から父の遺体を引き取り、頑丈で重い工事用の荷車で自分の家に運ぶ少年の脳裏に刻まれる時間と光を見据えておきたい。

「堪えがたい時が過ぎて行った。真昼どきの白熱した光が門前に待つ人びとにふりそそぎ、その暑さも堪えがたかったが、それよりもいま寺内ですすんでいることが、待つ人びとの気持ちを火で煎るように堪えがたくするのである。」
処刑の行われている寺の門前。切腹は時をえらばず執行された。作者は百字にも満たない字数の中で、「堪えがたい」と、文四郎の気持ちを3度も繰り返す。切腹する者の自尊心を奪っていくのが、真昼の白熱光である。

「蟻のごとく」の章の始まりは、「夜が明けると、日はまた昨夜の嵐に洗われた城下の家々と木々にさしかけ、その日射しは、六つ半(午前七時)に達するころには、はやくも堪えがたい暑熱の様相をむき出しに見せはじめた。」とある。自然描写に少年の心理が動く。
沈黙を際立たせる蝉の声。
「寺の奥から介錯の声が聞こえては来ないかと耳を澄ましたが、人声は聞こえず、耳に入って来るのは境内の蝉の声だけだった。」
・・・・・少年の人生はここから始まっていくのだ。続きをぜひ読んでほしい。コロナ休校が終わり夏を迎え、<蝉しぐれ>が聞こえる時、この作品は読者を勇気づけるに違いない。

以上の解説は、『読んでおきたいとっておきの名作25』(旺文社)から引用した。この名作ガイドブック、アマゾンなどネット販売の中古品では、148円から。とにかく多様な作品がピックアップされている。高校生のためにと帯にあるが御覧のように、十分すぎるほど、大学生さらに一般向きだ。名場面を入り口に読んで欲しい。
『蝉しぐれ』は私の担当した作品解説。
新装版『蝉しぐれ』上(726円)・下(715円)(文春文庫)。中古だと11円。

 

2020年4月8日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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