第150回 休校おすすめ読書3 -『マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女』/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第150回 休校おすすめ読書3 -『マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女』/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第150回 休校おすすめ読書3 -『マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女』

2020年4月11日

満月だ。4月に満月の日がやってくると、イースターを思う。
復活祭は、春分の日の後、最初に迎える満月から数えて最初の日曜日だ。復活日と呼んで祭りをあまり強調しない人たちもいるが、西欧の庶民にとって、この日は、クリスマス以上に祭りの色彩が強いものだ。広場に集まる人出は、クリスマスの比ではない。北国では春の訪れを祝うまさしく祝祭である。今年のイースターは、4月12日。

今年、世界中は歴史上かってない寂しいイースターを迎えることになるであろう。
アメリカ北部の田舎町で、イースターを迎えたことがある。ダウンタウンのウインドウには、色とりどりの卵が飾られていた。招かれたホームパーティーでは、子どもたちが卵探しで夢中になっていた。

この卵の由来は、イエスの復活を見届けたマグダラのマリアが、福音を伝えるべくローマを訪れ、皇帝ティベリウスに拝謁し白い卵を贈ったことに由来する。皇帝は復活を信じなかった、その時白い卵が赤く変わったと云う。イエスの血の色だと云う。カラフルな卵の中でも特別に赤い卵を大事にするのはそのためだ。
「卵黄に血の一筋や復活祭」などと云う句も、この伝承に基づいたもの。

簡単に彼女のことを記す。
「イエスの女弟子 悪霊に悩まされていたがイエスによって癒された.イエスの十字架の死を見守り,香料を携えてその墓を訪れたが,死体を見ないで復活のイエスに会った(ルカ8:2; 24:1-10 マルコ15:40-47; 16:1-9)伝説によると、遊女で罪を悔いた女(ルカ7:37-50)とされている。」(『世界人名大辞典』岩波書店)

さて、今回紹介する<おすすめ読書>は、このマグダラのマリアに関する本だ。
岡田温司著『マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女』(中公新書)

この本の特徴は、何と言ってその文体の分かりやすさだ。この手の本は、難しいのではないかと思ってしまいがちだが、実に読みやすい。次に図像が多いことだ。ほとんどのページに、図版がある。私は、読むと云うよりも絵を楽しむことからこの本に入っていった。聖なるマグダラと娼婦としてのマグダラが共存しながら、キリスト教芸術の世界に誘い込むのだ。

例えば、同時代の同じ画像<悔悛のマグダラ>でありながら、一方は、純潔を象徴するような、うなだれた少女、一方は上半身をはだけ恍惚の表情を見せる、官能的な女性。まったく異なった聖と俗の表象だ。
しかし共通しているのは、頬をつたう一粒の涙。

涙の意味を、本書は解き明かしていく。第Ⅳ章「襤褸(ぼろ)をまとったヴィーナス」には、「このうえなく美しいが、また出来るだけ涙にくれている」と記し、貞節にして淫ら、美しくてしかも神聖な、<娼婦=聖女>の姿を描き出している。
「西洋のキリスト教は、この聖女にいかなる願望や欲望を投影してきたのだろうか。宗教はもちろんのこと、社会や文化、芸術の歴史と、この聖女の運命とのあいだには、どのような関係があったのだろうか。」(本書、まえがき―両義的なる存在)といった問題意識は、キリスト教がマグダラを通して考えるべき想像力を私達に求めてきていると云ってもいいであろう。

神聖娼婦と呼ばれる、売春史における聖性と遊女との関連もこの本を読んで連想される。日本の仏教史においても、法然と遊女にまつわる説話や比丘尼と遊女、芸能と遊女など、比較文化として考えられる問題もある。もちろん、日本の近代文学でも、大きなテーマになり得るであろう。

芥川龍之介は、マグダラのマリアについて、
クリストの命が終わった後、彼女のまつ先に彼を見たのはかう云ふ恋愛 の力である。クリストも亦大勢の女人たちを、―就中(なかんずく)マグダラのマリアを愛した。・・・クリストは度たび彼女を見ることに彼の寂しさを慰めた。(『西方の人』15女人)
と記している。

2018年制作のDVD『MARYmagdalene』(マグダラのマリア)を見た。
マグダラのマリアは、漁師の娘。娼婦ではない。結婚を押し付ける家族との軋轢がマグダラのマリアをイエスに接近させる。ジェンダーの問題がこの映画の大きなテーマだ。復活を見届けた後の弟子たちとの仲たがい。若いユダの苦悩がいい。主演の女性は、ルーニー・マーラ。どこかで見た顔だと思ったら、テレビ「ER緊急救命室」に出ていたのだ。マグダラのマリアの絵画とはまったく異なっているが、芯の強さが表情にはっきりと出ている。映画の最後の字幕には、「591年グレゴリー1世がマリアは娼婦だった主張、その誤解が今日も残っている。」「2016年マグダラのマリアはイエス復活の証人として使徒と同等の地位が与えられた」と記されている。

マグダラのマリアに関連する映画と云えば、2006年公開トムハンクス主演ミステリ―映画『ダビンチコード』も忘れることは出来ない。今世紀最大の話題作などと云った触れ込みだった作品。一部の教会では、イエスを冒涜する作品としてボイコットもあった。イエスとマグダラのマリアとの間に生まれた子孫を探すのが一つの筋だ。
これも久しぶりにアマゾンで見た。休校でなければ立て続けに2本の映画を見ることはなかったであろう。

私がマグダラのマリアを知ったのは、ちょうど今頃、イースターを迎える大学3年の聖書研究会だった。その後今に至るまで、マグダラのマリアのことが頭から離れない。伝承にも、聖書理解にも困惑が細く長く続いてきた。迷いばかりであったが、私の遊女研究のひとつの原点がここにあったことは確かだ。

こんな不安な気持ちで復活の日を迎えたことはない。不安であるからこそ思い出さねばならないこともある。今年の今を刻んでおきたいと思う。

***

お月様と卵とイエス様と子どもが主人公になるような童話が出来ないものだろうか。忘れていた。イースターのウサギも登場させなくては・・。今晩はいい夢かな・・。

 

2020年4月11日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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