第161回 紹介「佐川田昌俊自筆消息」の周辺/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第161回 紹介「佐川田昌俊自筆消息」の周辺/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第161回 紹介「佐川田昌俊自筆消息」の周辺

2020年8月22日

一 此状今晩早々八幡の吾蔵坊へもたせ
越可被申候


一 我ら明日ハ用事候て滞留申候間明後
乗物かき越久と長左衛門可被申付候

一 明日手樽并塩雲雀入候はこ早々
もたせ越久と可被申付候留主之事ハ
長左衛門申付候通能々留主居申候へと
可被申付候 かしく

         卯月廿三日(印 昌俊)

<端裏書>
佐川田喜一郎殿  喜六 

この消息は、芭蕉研究者として著名な白石悌三先生(1932年生まれ、1999年7月5日没)の遺愛品を小生が戴いたものである。先生は、私が立教大学の学生であった時、一般教育学部の助教授として九州大学文学部助手から転じられた。私が大学院に入った頃、立教は文学部の松崎仁先生の影響が強く演劇研究、殊に歌舞伎研究を専門とする学生が多かった。その中で私は、江戸時代の前期の小説を専攻していた。新代田の先生のアパートの二階で西鶴の「独吟一日千句」の注釈勉強会行ったのもその頃である。(参加者は先生と私だけだった。)先生御夫妻とは何回かスキー旅行に御一緒するなど、公私共にお世話になった。先生は、1977年福岡大学へ転じられたが、その翌年私も1978年に東京を離れ下関の梅光女学院大学短期大学部に転じた。先生が御存命であれば今年で87歳、来年は23回忌ということになる。

この書簡をいただいたのも22年も前になる。御恩に報いて、この書簡を翻刻し世に出したいと思っていたが、私の研究が、佐川田昌俊とかなりの距離を持ったことから、放置されたままになっていた。

佐川田昌俊(寛永20年 65歳)は、姓高階、通称喜六、黙々庵と号した。永井家に仕え武人としての一面をもつが、当代の連歌師里村昌琢と並称された連歌人であり、歌人、茶人としてもよく知られている。 歌人としての佐川田昌俊を著名にしたのは、

吉野山花待つ頃の朝な朝な心にかかる峰のしら雲

の一首だ。

この歌は、江戸時代を通じて多くの人から名歌として高い評価を受け、近代になっても、新島襄の愛唱した歌であることでも知られている。

人類学研究の泰斗金関丈夫先生(梅光の国分直一先生の紹介)に天理のお宅でお会いした時、「京都に住んでいた時には、茶会で佐川田昌俊の名前を一年に2,3回は聞きましたよ」などとお話を伺ったこともある。その名は茶道界では広く知られている。『松花堂行状』の筆者でもある。

2013年には、京田辺市薪区文化委員会が中心になり「佐川田喜六昌俊-没後370年」のイベントも開かれ、昌俊が晩年を過ごし、墓のある一休寺では、法要や講話もあったそうだ。

さて、上記の消息だが、佐川田昌俊にもふれた拙著『近世大名文芸圏研究』(八木書店 平成9年)でも紹介できなかったものだ。

これに該当するものが、平成10年発行『思文閣墨蹟資料目録』314号に写真とともに掲載されている。

その目録解説に以下のような説明がある。

「一 此状今晩早々八幡の吾蔵坊へもたせ越可被申候云云
四月廿三日佐川田喜一郎宛消息 大倉好斎極添付
紙本 幅四三糎竪二八糎 総丈 巾四五糎竪百十一糎 紙装箱入200000円」

とある。

大倉好斎(文久2年没)は、古筆鑑定家、紀州徳川家に仕え、後に学習院(朝廷の教育機関)の古書鑑定に当たった人物。極札の外包紙の書付には「佐川田喜六文」、内包紙には「極」とある。「極」の字は、『古筆鑑定必携』(淡交社)の筆跡と一致。極札本体は厚手の紙片、縦16糎・横2.4糎、表に「佐川田喜六昌俊 一 此状今晩早々」とあり、印譜。印譜も照合合致。裏には、「竪文有名判 癸己春」、好斎の丸印、斜めに割り印もある。極札の大きさ、幅は見慣れたものと同じ、縦は若干、1糎ほど長い気もするが、大倉好斎の極めに間違いはない。外包み、内包みが残っているのも好ましい。箱は、杉。縦52.5糎・横6.5糎。表に「佐川田昌俊文」と墨書、横底に「リ壱號 佐川田喜六昌俊之文ミ横物副」底ふたには、「米平斎所持」とある。又、表蓋の裏、擦り切れたに小さな紙片に「天保十四年」とある。極め札の裏「癸己」は、天保四年のこと。天保年間に大倉好斎は、この消息が、佐川田昌俊の自筆のものであると認定したのである。

『日本書蹟大鑑』第12巻(小松茂美編 講談社)に、佐川田昌俊の書が三通収められている。最初の一通は、永井家との関連が指摘される比較的若い頃のものであり、後の二通は、晩年期のものである。筆使いから推察する眼力など、私には到底出来ないが、晩年期のものであることは、確かなようだ。『日本書蹟大鑑』のものは、歌が入り、崩しも定型的でフォーマルな感じがする。対して、今回紹介する消息は、かなり私的な走り書きのような感じを受ける。

今は、大倉好斎の鑑定に従って、佐川田昌俊の自筆ということで紹介することにした。

八幡と云えば、もちろん京都石清水八幡宮滝本坊の松花堂昭乗の周辺人物が思い起こされるが、「吾蔵坊」がまずわからない。<吾れの蔵坊>であろうか。石清水八幡宮に50数か所の多くの坊のあったことはよく知られている。その中に松花堂昭乗の滝本坊があり、ゆかりの深い豊蔵坊もあったのだが・・。「蔵坊」(くらぼう)もその一つで、中谷坂の路の北側にあった、宝暦9年の火災で類焼している。それかもしれない。(ネット検索「八幡ぶらりゆく」参照)<駕籠かきや手まわり人足>などと云うから、「越久」「長左衛門」は、身の回りの世話をする人であろうか。「久越」ならば、昭乗の高弟で前田家に仕えていた中村久越も周辺人物として浮かぶがちょっと違うようだ。(山口恭子氏の労作『松花堂昭乗年譜稿(上)』参照)どうも松花堂昭乗の周辺にこだわっているような気がするが、これは若き日に三日三晩妄想を重ねた<松花堂昭乗の豊臣秀次御落胤説と佐川田昌俊>のトラウマが残っているせいであろう。(どなたかこんなテーマで歴史小説を書いているかもしれない。)「佐川田喜一郎」は、身内のものであろうか。塩雲雀は、『本朝食鑑』五に「肉気味甘」とあり、又『守国公御伝記』五に「雲雀モ雁ノ如ク塩漬ニナリ」などとあるから、これは酒の肴であろう。

茶掛けとしては趣のあるよいもののように思うが、ちょっと生臭があるのは気にかかるところだ。

「喜一郎殿、今晩早めにこの手紙を八幡の方へ届けてください。明日は用事がありますが、明後日には、伺いますので、乗り物の用意を「越久」「長左衛門」の二人に云っておいてください。明日酒と塩雲雀が手に入りましたら、越久に持たせます。留守は長左衛門によくよく頼んでおいて欲しいものです。よろしく」といった意味であろうか。

小生、書簡の読みに自信がない。御叱正を賜れば幸いである。

今回ブログで紹介することにしたのは、徳島市在住の山野知禎氏より佐川田昌俊のことについて御質問をいただき、それに思うように答えられず、研究者としての怠慢を恥じ、それに少しでも答えられたらと思ったからである。

又、コロナ禍、在宅時間多く古書店の目録の処分を考え整理中、思文閣の目録に目が留まった故でもある。
白石先生の学恩にまた傷をつけて誤読をしたのではないかとも思う。

残暑の中、御笑覧いただき、御叱正賜れば幸いである。

2020年8月22日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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