昨年、11月30日から2泊3日で、『明日の友』(婦人之友社)取材で沖縄を旅した記録です。この時のことは、今月発行の『明日の友』2-3月合併号・早春号に「いのちを考える 沖縄戦の旅」として、掲載されています。以下の文章は、『明日の友』の一文と多く重なっていますが、書き残したこともありましたのでここに記すことにしました。『明日の友』掲載のものは、写真家古谷千佳子さんの美しい写真が掲載され、編集部からの沖縄南部のおいしい店の紹介もあります。本屋さんで是非お買い求めください。
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レンタカーが普天間基地のフェンスに横付けし駐車。佐喜眞美術館は、飛行機の轟音が聞こえる基地に隣接しています。1994年に、丸木位里・俊の『沖縄戦の図』を中心に開館。当時の新聞は「文化が基地を押し返した」と報じた。基地の一部返還によって出来た美術館です。玄関を入ると、真っ先に飛び込んでくるのは紅型染の打掛。見事な美しさに見とれていると、背後から長身の館長佐喜眞道夫氏から声がかかりました。「きれいでしょ。何の模様かよく見てください。」
目を凝らすと、上にオスプレイの空軍機、下にはジュゴンが泳いでいます。
「現代の沖縄を象徴したものを入り口におきました」と云いながら、沖縄戦の図へ。「二人同時には死ねないんですよ。首を絞め合っていますね。必ずどちらかが先に死にます。すると死んだ方の力が抜けます。首の縄が緩んだ方は死ねないのです。生き延びた悲惨さも考えてください。」「着物の模様もみてください。丸木さんは、沖縄戦を生き抜いた人と一緒にこの絵を描いたのです。絵の中に身内を探す人が今も来ますよ。闇を思い出して明日を生きていくんですね。」
奥の部屋の右手には、チビチリガマの図、ひしめく人、密集する人、地の底からうめき声をあげているかのようだ。左手の壁には、シムクガマの図。対照的に人がいない。
屋上に上がると、6段と23段の階段。6月23日の沖縄慰霊の日の日没線に合わせて設計され、階段を昇り詰めると正面に四角の窓。この窓から6月23日に沈む太陽の光が差し込む。出口の亀甲墓のある庭まで館長が送ってくれた。
「沖縄では亀甲墓はお母さんのお腹を象ったものだと云います。ここは<もの想う空間>です。思いを伝えてください。」
読谷へ。「ハブに注意」の看板を見ながら階段を降りるとチビチリガマの入り口。チビチリは、川がこのガマで尻切れの意味。ここは集団自決のあった住民壕。以下は、1995年に建立された平和の祈りの碑文の前文です。
「一九四五年四月一日、米軍はこの読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。それは、住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦・地上戦であった。その日のうちに米兵はチビチリガマ一帯に迫っていた。翌二日、チビチリガマへ避難していた住民一四〇名中、八十三名が「集団自決」をした。尊い命を喪った。あれから三十八年後、やっと真相が明らかになった。その結果八十三名のうち約六割が十八歳以下の子供たちであった。その他、二名が米兵の手によって犠牲になった。「集団自決」とは、「国家のために命を捧げよ」「生きて虜囚の辱を受けず死して罪過の汚名を残すことなかれ」といった皇民化教育、軍国主義教育による強制された死のことである。遺族は、チビチリガマから世界への平和の祈りを、「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を彫刻家金城實氏と住民の協力のもとに制作した。しかし、碑の完成から七カ月後、十一月八日、心なき者らにより像は無残にも破壊された。住民は怒り、遺族は嘆いた。全国の平和を願う人々はそのことを憤り、励ましに多大なカンパを寄せた。あれから七年余が経過し平和の像が実現した。チビチリガマの犠牲者への追悼と平和を愛するすべての人々の思いを込め、沖縄戦五〇周年にあたり、ふたたび国家の名において戦争への道を歩まないことを決意し、ここにこの碑を建立する。 一九九五年四月二日チビチリガマ遺族会」
この一文の後には、犠牲者の一人一人の名前と住所、当時の年齢が記されています。ガマへの立ち入りを禁止する見学者への掲示があります。「ガマの中には私達、肉親の骨が多数残っています。皆様が、ガマにはいって私達の肉親を踏み潰していることを私達は我慢できません。参拝は再建しましたチビチリガマ世代を結ぶ平和の像でお願いします。 チビチリガマ遺族会」と。
平和の像の傍には川が流れています。色とりどりの千羽鶴が飾られ、岩の上には、子供地蔵や十字架もあります。
非戦を誓いチビチリガマを後にし、近くのシムクガマへ。途中、海の見えるさとうきび畑に歌碑がありました。「ざわわ ざわわ」と66回繰り返される、サトウキビ畑を渡る風の音が聞こえます。読谷の西の海岸から米軍は上陸したのです。
草むらをかき分けて川の傍まで下るとシムクガマの前は、真っ暗で何も見えません。チビチリガマと同じく1995年4月に建立された碑にライトを当てると文字が浮き出ました。
「救命洞窟之碑 第二次世界大戦、沖縄上陸戦当時(一九四五年四月一日)波平区域約一〇〇〇人の命がハワイ帰りの故比嘉平治氏、比嘉平三氏によって救われたシムクガマである。」と記されています。
2日目
糸満の波平権現壕へ。このガマもシムクガマと同じく住民の命が救われたガマです。「出て来い出て来い」という米軍の呼びかけに応じ、「米軍は住民を殺さないはずだ」とガマを出たそうです。米軍に保護された日を記念し、毎年旧暦の5月5日には人々が集まるそうです。ガマの前には鳥居も建てられています。
南へ下り、「南部観光総合案内センター」へ。ここでは、案内ガイドの方がつき、糸数アブラチガマの中に入ることが出来ます。全長270m、水脈も備わった自然洞窟のガマです。中には、2階建ての兵舎、食糧倉庫、井戸、カマドが設けられ、電線も魅かれていました。1945年4月下旬まで日本軍の陣地壕として使われた後は、南風原にあった陸軍病院から、軍医・衛生兵・看護婦・ひめゆり学徒隊が移動して、糸数陸軍病院分室として使われました。一日500人もの負傷兵が運び込まれました。患者の怒号と悲鳴がガマに溢れていたそうです。5月下旬糸満への撤退の時には重症患者に自決用の青酸カリが配られたそうです。その後重症患者と糸数の住民約100人が残ります。何度かの投降の呼びかけに応じず、米軍はガソリンを流し込んで攻撃、土砂で生き埋めにする、所謂馬乗り攻撃をします。住民は監視兵のもと外へ出ることを禁止され、戦争が終わったことを知らせに来た女性も銃で殺害され、結局住民がガマから出たのは8月22日、置き去りにされた重症患者と日本兵のリーダーが出たのは9月中旬でした。
ヘルメットをかぶってガマにはいると時々ゴツンと岩肌に頭が当たります。年間10万人を越える見学があり、一日600人以上の修学旅行生が来ることもあるそうです。
「子供たちはみんな真剣に聞いてくれますよ。戦争は死の世界ですよね。岩肌を伝わる水の音を聞いて下さい。一人一人のいのちの声です。死ぬのは人間、数字ではないの、それをわかって買帰ってね、と話すんですよ。」
そう言う、ガイドさんの目も真っ赤だった。
階段を上がり闇の世界から緑の世界へ。フラミンゴハイビスカスが風に揺れている。深く深呼吸して外気を吸うと、今生きているありがたみと戦争への嫌悪で胸が張り裂けそうだ。
平和記念公園の平和の礎(いしじ)へ。6月23日の慰霊の日にはこの地にガマの形をしたテントが張られます。戦没者の刻銘碑には、敵・味方、軍人・民間人、国籍の区別なく、沖縄戦で亡くなった人々が刻印されています。2019年5月の時点でその人数は24万1566人です。今後の調査によって人数はまだ増えるでしょう。朝鮮半島から徴兵、徴用された人や日本軍の慰安婦となった人など1万余名の名前も調査が確定していません。饅頭型をした石塚の朝鮮人慰霊塔が、平和記念堂の前にあり、塔の上では矢印が母国の方を向いています。刻銘碑は未完の悲しみを訴えています。
慰霊の日の日の出の方位に合わせて作られたメイン園路をまっすぐ進むと平和の火。さらにその先には摩文仁の海岸、寄せては返す波頭が、歴史を刻んでいます。
3日目
首里高校「一中学徒隊資料展示室」(養秀会館)へ。
6月14日の「朝日新聞」誌上、太平洋戦争末期の沖縄戦で「鉄血勤皇隊」に動員され戦死した旧制沖縄県立第一中学校(現・首里高校)の学徒たちが書いた遺書の修復が終わり、公開展示されていることを知った。「鉄血勤皇隊」は、沖縄戦末期に召集された14歳から16歳の学徒による少年兵部隊だ。
『沖縄県史』によると、沖縄戦で旧制の師範学校と中学21校から、判明している者だけで、14歳から19歳の男子約1500名、女子約500名が動員され、多くの犠牲者を出し半数以上の少年少女が亡くなった。
このうち、第一中学校の動員数は371名、戦死者210名。(『歩く・みる・考える沖縄』)展示パンフレットでは、「わが国唯一の地上戦で290名の1年から5年までが学業半ばにして無念の死を遂げた」と記す。
展示室には、犠牲となった生徒の写真が並び、記憶を記すファイルがある。
「日本一の卒業式」と題した1年3組知念宏章君の一文。
「もうすぐ4月という時に、上級生の数人が壕を訪ね歩き「本日夕方、義秀寮で、4年生、5年生の卒業式が挙行されるから参列するように」との通知を受けた。」「まだ明るい6時半ころ、壕を抜け出し、敵機の攻撃の合間を縫って、石垣沿いに寮にたどり着いた。寮生を含め首里近郊から集まった先輩たちが200名余り、緊張した面持ちで待機していた。7時を過ぎた頃、月光照らされた広場で、粛々と<日本一の卒業式>が挙行された。」「艦砲射撃の炸裂音が寮にも届き、炸裂時のあの独特の赤い色が煌めいて、まるで一中最後の卒業式に花を添えるかのようであった。」と記す。
月光の下、「日本一の卒業式」。これほど悲しい「日本一」という言葉を聞いたことはない。生徒を軍属とするために、学籍の離脱を急いだのだ。卒業式は昭和20年3月27日、米軍沖縄上陸は4月1日。
「絶対捕虜になってはいかん」と題された2年高嶺朝勇君の一文。
「渡久山君と行動を共にしていると一人の一等兵が仲間入りした。彼は吾々二人に何度も軍人の本分について精神訓話を聞かせた。「絶対に捕虜になるな」と注意し、米軍が近づいたら一緒に自決しようと吾々を説得した。彼は吾々に手りゅう弾を配ってその使い方を教えた。翌朝、物音で目をさまし、気がつくと米軍が吾々をにらんで銃を向けていた。僕は手りゅう弾の信管を抜きかけたが隣の渡久山君が真先に手りゅう弾を発破させてしまった。僕はその爆風を受けてひっくり返った。暫く意識を失い、気がつくと僕は米兵に捕まっていた。隣の渡久山君は既に息絶えていた。憎ったらしいことにその一等兵は真先に手を挙げて捕虜になりやがっていた。全くいまいましい。そいつは恥ずかしくなったのか、収容所に着いたら僕の前から姿を消してしまった。」
一中の学徒のみが遺書を書き残したのです。遺書は撤退の途中かめに納められ、土の中に埋められました。戦後4年目に掘り出され、約40通の遺書や遺髪が取り出され、一部は遺族の手に、約30通を首里高校で保管、2016年に同窓会の依頼によって修復作業が開始、修復作業が続いています。
その中の一通。
「遺書 一遺言ナシ 一婦女子関係ナシ 一帝国ノ必勝ヲ信ジ悠久ノ大義ニ生ク 昭和二十年四月八日 金城正彰 父様」
強い筆圧です。『鉄血勤皇隊の記録』(兼城一編 高文社 2000年)の巻末名簿によれば、当時4年生です。
展示室から山道伝い、切通しの道に、戦車体当たり作戦の爆薬を保管した壕などがあります。首里への坂を下ると深い緑のなか、デイゴ・オオゴチョウとともに沖縄の三大名花と呼ばれるサンダンカが、赤く咲き残っていました。葉が少し小さくつつじのようです。コバナサンダンカのようです。
空港までの短い時間、「沖縄友の会」の方のお宅でお茶をいただき、琉球料理の話を聞いていると元気が出ました。ベランダからは、首里城の焼け跡が見えました。
「沖縄戦かく戦えりと世の人の知るまで
真白なる丘に木よ生えるな草よ繁るな」
映画「ひめゆりの塔」にも登場し、悲惨な状況の中で、教師としての誠実な生き方しめした仲宗根政善の歌です。戦後、廃墟と化した那覇から首里城を見て作られた歌だそうです。
読谷から首里城まで平均1坪に1トン、沖縄全体では20万トンの爆弾が撃ち込まれました。本土では16万800トンです。沖縄は本土の0.6%の土地です。結果、地上の草も木も飛ばされ、石灰岩がむき出しになり、白い国土となったのです。首里城は白い丘にあったのです。
「あれを見て戦争のことを思い浮かべる人も多いんですよ。真っ赤に燃えて首里城も廃墟になりましたからね。今度は琉球料理を用意しましょうかね。」
新たな基地建設、辺野古に土砂が運び込まれて1年以上たちました。投入量は全体の1パーセントだそうです。今なら戻れるのではないでしょうか。勇気をもって引き返さなければ海は汚れ、悔恨は続くのです。7割の島民が反対の意思を示した基地新建設は、又、又、4人にひとり亡くなった「沖縄」を標的の島とし、犠牲を強いているのです。戦跡巡りは老いたる者の責任なのかもしれません。ガマは平和への意志をつなぐいのりの聖地です。
2020年2月2日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)