第4回 10月26日、お茶の花が咲いています/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第4回 10月26日、お茶の花が咲いています/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第4回 10月26日、お茶の花が咲いています

2015年10月26日

今日10月26日は、羽仁吉一先生の命日です。
朝早く雑司ヶ谷では墓前礼拝が行われ、合同礼拝では、吉一先生の教えを受けた昭和19年卒、男子部4回生の御話がありました。忘れてはならない心にしっかりと刻みたい思い出です。

もう一人、この日に亡くなった、私にとって忘れがたい詩人のことを書き記しておきたいと思います。

お茶の花

お茶の花 自由学園の庭で 10月26日撮影

小学生の元気な声を聞きながら、大きな欅の木の側の坂道を下ると、図書館の手前の木立に、茶の花が咲いていました。
俯きかげんのちょっと寂しい白い花です。

白い花を見ながら思い出したのは、八木重吉の茶の花忌のことです。
昭和2年(1926年)10月26日八木重吉は、29歳の若さで、愛する妻と二人の子供を残して亡くなりました。

町田市相原大戸の八木重吉記念館(おそらく日本で一番小さな記念館でしょう。生家の土蔵の中には、八木重吉の書簡や記念の品などが陳列されています。)の近くにある墓の前では、この日茶の花忌がいとなまれます。

大学2年の秋、法学部の学生だった私は文学部への転部を迷っていました。迷いの中で、私の心を離れなかった二人の詩人がいました。一人は、ふるさと函館で出会った石川啄木、もう一人は、大学のキリスト教青年会で出会った八木重吉です。

その頃、私は故郷の思い出から抜け出したいとしきりに考えました。愛読書を、石川啄木から八木重吉に変えることは、心が故郷を離れることと同じ意味を持っていました。
そんな時に、愛唱していた詩です。

「心よ」
こころよ
では いっておいで
しかし
また もどっておいでね
やっぱり
ここが いいのだに
こころよ
では 行っておいで

「ここ」はゆれうごく自分の心です。
弱い自分の心です。どっちつかずで不安になりながらも、誠実であろうとする自分です。
力いっぱい抱きしめてやりたいような自分の心です。

がんばれよと叱咤激励するのでもありません。
寄り添いながら、温かく包み込むような場所をこの詩は持っています

十字架の墓所に入るのか。先祖の墓所に入るのか。そんな決断の時でもありました。

もう一つ、八木重吉の詩を紹介しましょう。掲載されている教科書もありますから読んだ方も多いと思います。

 「素朴な琴」
このあかるさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴はしづかに鳴りいだすだらう

記念館への入り口の丸い詩碑にこの詩が刻まれています。
草野心平はこの詩碑を見ていると、まるで重吉の顔のようだといったそうです。

「素朴な琴」の詩を選んだのは、重吉の妻であった吉野登美子さんです。
「この詩は私が選ばせていただいたが、重吉の愛した故郷の澄みきった天地、空間のなかに、これがもっともふさわしいと信じたからである」と、回想記『琴は静かに 八木重吉の妻として』(弥生書房・1976年)でふれています。

お茶の木の生垣に囲まれて八木重吉・長女桃子・長男陽二そして登美子夫人の墓があります。
重吉の没後10年に、桃子が14歳で、13年後に陽二が15歳で亡くなったのです。父と同じ結核でした。

重吉の没後、登美子夫人は、昭和22年に歌人吉野秀雄のもとに嫁ぎました。重吉が死んだ時に22歳であった夫人はこの時、42歳でした。

大学3年の時、文学部に転部した私は、卒業論文に八木重吉をやろうと思い(私の卒業論文は井原西鶴研究ですから、そのあとにだいぶ方向転換したことになります)、先輩の紹介で、登美子夫人を訪れました。

その時に、重吉の草稿を見せていただきました。もっとも印象に残っているのは、赤や黄色のリボンで閉じた草稿と、それを入れてあった籐製のバスケットです。「空襲の時もこれを離さずにね。吉野の家に来ましたのよ。」と、夫人は少し壊れかかったバスケットのふたを開けてくれました。

吉野秀雄は現代の万葉歌人と讃えられた大きなスケールの歌人です。良寛を語る時には吉野秀雄を抜きに語ることはできません。吉野は妻の前夫の詩に傾倒し、重吉の詩集刊行に尽力しました。登美子夫人も大きな病を抱えていた吉野家に献身します。

八木重吉の二十五年目の茶の花忌に、夫人と一緒に墓参に来た、吉野秀雄は、次の歌を墓前に捧げたそうです。

重吉の妻なりし今のわが妻よ
ためらはずその墓に手を置け
われのなき後ならめども妻死なば
骨分けてここにも埋めやりたし

10月26日。女子部の3年生に特別授業で八木重吉のことを話しました。女子高生への講義は初めてです。高校生の真剣なまなざしをどこまで受け止めることができたかは疑問です。伝えたかったのは、迷いの心の大切さです。八木重吉のこと。重吉の夫人であり、吉野秀雄の妻でもあった登美子さんのこと。吉野秀雄のこと。そして自分の抱えた迷いのことです。

やっぱり
ここが いいのだに
こころよ
では 行っておいで

今日は、この詩に羽仁吉一先生と八木重吉が重なって見えるような気がしてなりません。

2015年10月26日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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