第28回 大人から子どもへ「お早うございます」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第28回 大人から子どもへ「お早うございます」/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第28回 大人から子どもへ「お早うございます」

2016年4月30日

先日、ある所で、「近頃の子供は挨拶をしない」ということが話題になった。たしかに道を歩いている時に、近所の小学生から、「お早うございます」などと声をかけられることは少なくなったような気もする。
どこに原因があるのだろうか。

「その原因は子供たちへの教育だ。子供に挨拶するようにもっと注意すべきだ。」などといった意見も聞く。
まあそれも大切なことかも知れないが、「最近の道徳教育の欠如だ」などと云う人は、どうも挨拶の意味を取り違えているような気がする。
挨拶の基本的姿勢は、所謂、下位者から上位者に対して一方的に行われるものではない。
後輩が先輩に対して、人前をはばからず大声で挨拶するなどというのは、何やら徒弟関係や封建制の残滓のようで周囲にとって不快なことである。私が体育会の部長をしていた時も、又応援団の部長をしていた時も、このような挨拶が不快なものであることはうるさく言った。

挨拶とはもちろん相互的なものである。どちらから先にと云うものではない。阿吽の呼吸と云ってもいいものである。
というよりは、むしろ、上位者が下位者(この表現もおかしな表現であるが・・)に対する率先的な行為であることが求められていると私は思う。少なくとも語史的には云えそうである。
挨拶の挨は、押す。拶は、押し返すの意味である。『仏教語辞典』や『日本国語大辞典』などの解説でも、禅語からの表現で、師家(先生)が修行者(生徒)の悟りをためすことであると説明がある。又、「物言い」・「声をかける」・「言葉をかける」などといった和語にもこの例は発展していると云う。
相手に親愛の言葉をかけることがそれから転じていくのである。

「あいをする」などと云う言葉もこれに通じる。「己(おのれ)より幼きをば、愛(いと)ふしみ、あいをなし」(七草草子)などといった例が室町時代の後期にある。子供をあやすなどと云った言葉とも同源である。
挨拶にはねぎらいの意味があると考えていいであろう。

「グッドモーニング」と先生がまず生徒みんなに声をかけることから始まって、生徒が「それにグッドモーニング」と答えるのが、欧米の通例である。先生の「グッドモーニング」には、もちろん、「いい朝ですね。ご機嫌いかがですか」の意味がこめられているのである。生徒は「はい。元気な朝です。」と答えているのである。
「それは西欧文化ですね。」などと云う人が居るかもしれない。長幼の序を大切にする儒教でも、本来は、「太夫その臣に於けるや。賎しといえども答礼す」(「曲礼下篇」)とあり、自分の家臣に対しては、いかなる者に対しても主人は挨拶をしたのである。」

桂川甫周の娘の口述を書き残した「名ごりの夢」は、幕末維新前夜の知識人の有様を綴ったものであるが、「立派な身分のお方でも、徳のある方は、子どものような者にも、お早うございますと云います。」と記している。
素っ気のない態度で「おはよう」などと云うのは、徳のない人である。
まして、生徒がおはようと云うのを待っているようなのは、教師として失格であろう。教師の側から、「おはよう」と云うのが本来の挨拶の行動パターンなのである。

何時であったか、ある幼稚園に行ったことがある。リズムを取ってかわいい声で朝の挨拶をするのを聞いた。
「先生おはよう」「皆さんおはよう」と歌うのである。
元気な歌声になんともうれしくなったが、最初に声を発するのが園児であったことに少し驚いた。まず先生が「皆さんおはよう」と声を発するべきであろう。

幕末にやってきた外国人がまず驚いたのは、日本の各地で、身分階層性別を越えて、すれ違う人のほとんどすべての人が、「おはよう」と声をかけてくれたことだそうだ。
今や日本は<知らんふり>の文化に落ち込んでいる。ここに落ち込んだ理由の一つは、挨拶を敬礼と、取り違えている無礼な近代国家主義の道徳家かもしれない。

「子どもの日」も近い。子どもたちに会ったらまず、こちらから挨拶することが肝要である。
もちろん優しく・・丁寧に。

2016年4月30日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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