第54回 JUJU・阿修羅・大和路/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第54回 JUJU・阿修羅・大和路/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第54回 JUJU・阿修羅・大和路

2016年12月15日

女子部(中高生)で、クリスマスを前に話をした。
クリスマスにふさわしい歌を探し当てたような気がして、JUJUの「やさしさで溢れるように」を礼拝で流した。
もちろんラブソングなのだが、私にとって「あなた」と呼びかけた対象は、祈りだ。

「やさしさで溢れるように」  作詞 : Shinquo Ogura ・ Seiji Kameda

目が覚めればいつも 変わらない景色の中にいて
大切なことさえ 見えなくなってしまうよ

生きてる意味も その喜びも
あなたが教えてくれたことで
「大丈夫かも」って言える気がするよ
今すぐ逢いたい その笑顔に

あなたを包むすべてが やさしさで溢れるように
わたしは強く迷わず あなたを愛し続けるよ
どんなときも そばにいるよ

当たり前の事は いつでも忘れ去られがちで
息継ぎも忘れて 時間だけを食べてゆく

花の名前も 空の広さも
あなたが教えてくれたことで
愛と呼べるもの 分かった気がする

変わらない日常におぼれる自分。大切なものが見えなくなってしまうのではないかと云う不安。息継ぎを忘れて時間を食べている自分。
そんな自分を「あなたを包むすべてが  やさしさで溢れるように」と歌う。

「あなたを包むすべて」と云う言葉が私の琴線を揺らしたのだ。
「包む」という表現には、宗教的な抱擁が立ちあがってくる。
漢字の「包」は、胎児の「己」を抱える形に似ている象形だ。
袋の中に投げ入れるのではない。愛するものを包むのだ。

最高学部(大学部)の女子2年生の奈良・京都の寺々を巡る研修旅行に同行した。
冬の青空に毅然として立つ塔、歴史を重ねた甍、そして仏の微笑に真摯に向かい合う若き諸君との旅は、至福の時であった。
長く同じプログラムで続いている大和路の旅は、私には市民として自負すべき、civility(礼儀正しさ、丁寧さ)を学ぶ旅であると思えた。
そして祈りを根源的に考える旅でもあった。

多くの仏たちとの出会いの中で、私が「包む」という言葉を再度思い出したのは、この旅での興福寺の「阿修羅」像との新たな出会いがあったからだ。
(興福寺 国宝「阿修羅像」 http://www.kohfukuji.com/property/cultural/001.html

阿修羅の三組の手は、一つは合掌し、一つは天空を支えるようなポーズで日・月の宝物を持ち、そしてもう一つの手は、弓に矢をつがいでいる。そう信じてきた。何故なら、「阿修羅」は攻撃の仏だからだ。怒りの表情、敵に向かう「アスラ」の表情なのだと考えてきた。
ところが、一説には、支えているのは世の弱者に対してであり、自分の体に向かって包むように広げている手と腕は、攻撃のものではなく、それは、あらゆる人を包み込むのだ。手をもって抱きしめているのだというのだ。

少年阿修羅の怒り、祈り、支援そして抱擁。
少年は何処を見ているのであろう。

堀辰雄は、昭和16年10月奈良を訪ねた。
「ちょうど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王の前に立ち止まっていた。なんというういういしい、しかも切ない目(まな)ざしだろう。こういう目ざしをして、何をみつめよとわれわれに示しているのだろう。」

堀が大和路を訪れた2箇月後、真珠湾攻撃で日本は戦争への道を本格的に歩み始めた。
堀辰雄そして阿修羅のまなざしの先に見えていたのは滅びであった。

今、阿修羅は戦いの終わりを見つめているように思えてならない。深い安らぎの在り処を探しているのだろうか。
阿修羅のまなざしは切ない。遠くに離れた故郷を思うような切なさだ。母性をから解き放されるような切なさだが、そこに誰もが頼る、寄り添うことの出来る祈りがある。横溢するやさしさに救済を求める。「あなたを包むすべてが  やさしさで溢れるように」

私はあなたに包まれているのだ。
阿修羅のまなざしのせつなさの向こうに少女たちの祈りがあった。

歌人岡野弘彦の歌が浮かぶ。
「うなじ清き少女ときたり仰ぐなり阿修羅の像の若きまなざし」(「冬の家族」)
折口信夫門下の岡野弘彦は、自由学園に深くかかわり、この旅にも同行した。その折の歌である。

2016年12月15日  渡辺憲司 (自由学園最高学部長)

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