第57回 佐藤泰正詩集『夜の樹』に寄せて /前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第57回 佐藤泰正詩集『夜の樹』に寄せて /前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第57回 佐藤泰正詩集『夜の樹』に寄せて 

2017年1月16日

昨年、11月23日、佐藤泰正先生没後1年の追悼記念会が下関で行われた際、先生の若き日の詩集『夜の樹』を見せていただいた。
昭和26(1951)年に非売品として、頒布されたものだ。先生が、梅光女学院に着任し、下関教会で受洗されたのは、戦後すぐの1945年、同中学の部長になったのは、1950年である。

京夫人の挿画

この詩集は、今後の下関での生活に本腰を入れて取り組まれようとした30代前半のものだ。早稲田の同人雑誌で一緒だった北条誠の跋文では、この詩集が、戦場で逝った人への鎮魂でもあることも想像される。
先生はあとがきで、
「冷く、透きとほつた大気のうちに、その枝を細く、鋭く、さしのべてゐる冬の梢・・・何かを感ずるやうに、祈るやうに、そして、何かをしずかに堪へてゐるやうに・・・私の詩もまた、そのやうに、透明な、純粋な詩の気圏に、より深く、より鋭く迫る触手でありたい・・・」と記している。
「挿画・装飾」は、京夫人だ。思い出の共作と云ってもいい。
神と題するこんな詩が載っている。


ときたま つめたい風が きては
散り残つた葉を 撒きちらして いつた
木洩れ日の 明るい 午前の林・・・・
枝々は しづかにその腕を拱(く)みあはせた・・・・・・

作者は林の間を散歩でもしているのであろう。散り残した葉を冷たい風が撒き散らす。
終戦間近に散っていった若い魂への嘆きであろうか。訪れる午後の寒さに向かおうとしているのであろうか。戦後への思いであろうか。
木枯らしの予感がする。葉を奪われた孤独の枝々は、音もなく、静かにその腕を拱みあわす。小春日和から木枯らしへ。

この詩には、静から動へ、そして静謐な対峙がある。
作者はこの詩に「神」と題した。
冷たい風の動きを神と呼んだのであろうか。そうではあるまい。寂しい裸木が腕を拱みあう。その木のもとの奇跡的な共同的営為を神と呼んだのである。枝々に分かれていても一木である。

作者は、「組み合う」ではなく、「拱みあう」という表現を使いたかった。その意志は明確だ。何もしないでいることを手を拱(こまね)くなどと使われることが多いが、「拱」は、両手を胸元で組み合わせるのが原義である。ここは原義に近い。拱門などという場合には、アーチ型の門を云う。神への狭き門を、裸木が組み立てているのかもしれない。自らあとがきで記しているように、ここにあるのは、純粋な、透明な祈りである。私は、先生の祈りの「気圏」に誘い込まれ抱かれるような思いがする。
そんな勝手な解釈をあれこれ考えた。

佐藤泰正は、文学評論家でもなく、文学史家でもなく、誤解を恐れずにあえて言えば、文学研究者でもなく、詩人であった。
「渡辺君。私の詩に勝手な解釈して、少し思い込みが激しいよ」
そんな先生の声が聞こえる。
先生が亡くなったからできる私の解釈である。先生がお元気であったら、この詩について書こうなどとは思いもよらないであろう。人が亡くなり何かを残すということはこんなことなのかもしれないと思った。先生が亡くなったことは寂しい、大きな穴があいたと思う人もいるであろう。空虚な穴だという人もいるであろう。しかし、私はそうは思いたくない。
空虚な思いに引きずられていては、先生の死を迎えることにはならないのだ。

先生の詩は、八木重吉に似ていると思った。しかしどこか違う。重吉にある哀しみが、先生の詩にはないような気がする。若くして死んだ重吉の詩には明るさに忍び寄るような絶望が漂っている。しかし先生のこの詩には、希望がある。信頼がある。たぶん先生はそのことを自分で気がついていたのであろう。やさしさが詩人を成長させることが難しいことを。詩魂は教育者を育てたのだ。

私は三十代の七年間を梅光でお世話になった。酒を飲みすぎ先生の前でうなだれ始末書も書いた。先生の言葉が忘れられない。
「誰のために教えているんですか。学校でも、もちろん国のためでもありません。一人一人の学生のためですよ。神様のお召しによって働くのですよ。」

先生の言葉が、今ようやくわかりかけてきた。いかなる宗教の下でも、どんな国家に生まれようとも、学校教育は機会均等であるべきだ。だから私は、思想、主義、信条によらずいかなる所でも教えに行かねばならない。
教育の根源は、個人の尊厳のためにある。今年も先生の年賀状は来ない。「とにかく研究だけは続けなさいよ。」と先生の声が聞こえる。

以上は、発刊予定の梅光大学の『日本文学研究52号』への追悼寄稿原稿をもとにしたものです。

2017年1月15日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

 

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