第59回 『江戸のパロディ』雑記/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第59回 『江戸のパロディ』雑記/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第59回 『江戸のパロディ』雑記

2017年2月6日

『東京人3月号』(都市出版)特集「これはパロディではない」は発売されました。拙稿は、「もじり、本歌取り 江戸っ子の知的で粋な遊び。業平を貧乏酒乱に変える江戸」などと題されたものです。
江戸時代初め出版メディアが成立して以来、日本の古典の作品の中で、もっとも読まれた作品は、『伊勢物語』です。ロングセラーと云ってもいい作品です。この『伊勢物語』のパロディ作品が『仁勢物語』(にせものがたり)です。

以下の話は『東京人』では紙数もあり触れていませんが、私の好きな一章です。
『伊勢物語』12段。有名な東下りの段です。
武蔵野まで恋しい男と逃げて来た女がとらえられます。男が逃げ込んだ草むらを追手が焼いてあぶりだそうとすると、女は必死の思いで歌を詠み懇願します。
武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれりわれもこもれり
(武蔵野は今日は焼かないでください。私の愛しい人が隠れていますし私も隠れているのですから・・若草は、若い二人のことも云うのでしょう)

これに対して、『仁勢物語』は、追われてきたキリシタン夫婦の話に変えます。武蔵野の中に隠れている二人を追い出そうと火をつける直前、妻が懇願します。
武蔵野は今日はなや焼きそ浅草や夫も転べり我も転べり
(武蔵野は今日は焼かないでください。夫の私も転宗いたします。・・浅草は小塚原に移るまで江戸の刑場、その意味も込められています。)

この後の結末がいいのです。『伊勢物語』は、二人ともにとらえられましたと終るのですが、『仁勢物語』は、「夫婦ともに助けて、放ちけり」と終ります。
キリシタンの話、もちろん悲惨な話が多いです。迫害は悲惨な現実を生み出しました。一方で、キリシタンの教えに頼らざるを得なかった庶民の気持ちに寄り添うような形の作品が生まれていることも記憶していいでしょう。

文芸の卑俗化と云った表現がパロディに対する一般的な文学史的評価ですが、そのような古典的な解釈のみで江戸のパロディ文化を語ることはどうも的を射てはいません。
20年以上も前のことです。ハーバード大学のヒベット先生と何度もお話をする機会がありました。「江戸の笑い」に強い興味を持たれ編著も出された頃でしたが、物静かに何度も「日本人の研究者は笑いに対して卑屈なのではないか。卑俗化と云った言い方は「パロディ」の自立を日本人自ら笑いに逃げ込もうとしているのではないか。」そう私たちに問いかけました。そんなことも思い出しました。

今夏の特集号はその見出しを「これはパロディではない」としています。
「パロディ」の特集の題としては奇妙に見えるかもしれませんがこれは卓見です。実に思い切った表題だと思いました。
パロディを越えなければ、否定しなければ、ほんとうのパロディは生まれません。
権威あるもの、もしくはカノンの伝統的古典に対して、パロディがもう一つの別の個性として自立した作品であることを見事に云い現わしていると思います。

そんな思想の流れに、『仁勢物語』から大田蜀山人へと江戸時代のパロディ文化をとらえてみたいなどと思ったのですが・・・。
拙文はどうもうまくいっていませんが、横尾忠則・萩原朔美・河北秀也・宮武外骨などの多彩な言説、加えて杉本博司と都築響一対談などです。立ち読み必見です、しばらく動けなくなりますよ。家でじっくり読むのもおすすめです。

2017年2月6日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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