第85回 秩父・大森・水俣へ/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第85回 秩父・大森・水俣へ/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第85回 秩父・大森・水俣へ

2017年12月21日

師走2日、秩父の夜祭り。山車の引き回しに押されながら、秩父銘仙の出店をのぞいた。再来年のNHKの大河ドラマ韋駄天の場面で浅草の十二階下の銘酒屋の女性が出るそうで、先日、その衣装について相談を受けた。私の一押しは、秩父の銘仙、安価でしかもデザインが大胆、やや蓮っ葉な感じがするが、着崩れがいい味を出しそうだ。

3日、大田区の文化の森で講演会。勝海舟の墓のある洗足池にちなんで勝海舟の話をした。墓の側に勝海舟の記念館が来年着工し銅像設置も考えているとのこと。

海舟の銅像で知っているのは、三つ。
一つは新しいもので坂本竜馬と海舟が出会った町赤坂にあるもの。二人並んだ対の銅像で、海舟は小柄で牛若丸などと呼ばれていたという。二人が相撲を取ったなどといった話を重ねるとなかなかいい雰囲気だ。
錦糸町の中学の裏手にある能勢の妙見院別院の銅像は軍服姿のもの。ここの妙見様は父の小吉が、息子海舟のきん玉を狂犬にかじられた時、その平癒を祈った所。
三つ目の墨田区役所の裏手の公園の銅像が一番立派だ。右手をあげ隅田川を見て立っているが、実にりりしい。そして左手で刀をおさえ、しっかりと帯に結び付けている。これは刀を抜かぬことを信条とした海舟の思いを伝えたのであろう。「己は殺されなかったのは、無辜を殺さなかった故かも知れんよ。刀でも、ひどく丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった。ナニ、蚤や虱と思えばいいのサ。肩につかまって、チクリチクリと刺しても、ただ痒いだけだ。生命に関わりはしないよ。」などと『海舟座談』にある。この話を枕に中心は、「日清戦争は俺は大反対だったよ。兄弟喧嘩だもの犬も食はないじゃないか。たとへ日本が勝ってもどーなる。」と云った海舟の非戦論。

4日、大学のゼミが終わって出発したので、水俣に着いたのは午後10時過ぎであったが、ホテルに着く直前に、海の方に回ってもらうように頼んだ。暗い海を見たいと思った。以前来たのは、湾が埋め立てを始めていた頃だ。汚染された湾の魚を仕切り網でせき止めて、その大量の魚で湾を埋め立てる計画が進んでいた。今は「エコパーク水俣」と呼ばれたイベント緑地だ。その時のことが沸き上がるように浮かんだ。チッソ工場の組合が二つに割れていた。新組合と旧組合のいがみ合いは、学校での子供の生活にも影響を与えていた。公害問題は、子供生活に深刻ないじめあいを生んでいた。

「ここの埋め立ては、上に何も建てられないんだよ。ただ広いだけさ、グランドを作っても照明も建てられないから、ナイターができないんだよ。魚の死骸で出来てるからね、下にあるのは土じゃないよ。暗いよ。もっと先に行くと何も見えないよ。」と運転手さん。

「久しぶりにちょっと海を見たいからね。」

冥い海だ。波浪注意報が出た海は、黒く、岸壁に打ち寄せる波頭が白い。小型船が、四つ、五つとつながれていた。埋め立て地は「エコパーク水俣」と呼ばれている。暗い海の音をしばらく聞いて振り返ると大きな月が出ていた。例年より大きい月でスーパームーンと呼ぶそうだ。

翌朝5日、最高学部2年生の研修旅行の男子学生一行と合流。案内は、学園学部卒業生の小泉さん。現在、水俣病センター相思社の職員だ。昨夜行けなかった「水俣病の慰霊の碑」へ。碑が建てられたのは2006年。水俣病の公式認定から50年後に書かれた説明文には、「水俣病で犠牲になったすべての人の魂をなぐさめ、環境破壊が引き起こす悲劇を二度とくりかえさないこと」を祈願し建立されたと記している。犠牲者314名の名簿がここに納められている。この数は、認定死亡患者のすべてではない。悲劇が続いていることを忘れてはならない。慰霊の碑から怒りの声をくみ取らねばなるまい。昨夜闇に隠れていた恋路島が見える。小雨が不知火海を叩き続けている。

痛恨の苦界浄土の原点とも云うべき茂道の浜へ。「海の匂いがしないでしょう。プランクトンがいないんですよ。魚が住めません。きれいな海になったってこういうことなんですよ。以前は、イワシが山のように獲れてね。」振り返ると急斜面の山。「チッソ被害で海に出られなくなって、昭和40年頃から、ミカンが作られたんですよ。甘くておいしいんですよ。」と小泉さん。

彼女の勤める相思社では、水俣病の患者さんの支援やチッソ被害の歴史資料などを集めている。急な坂を上り相思社に併設されている「水俣病歴史考証館」へ。海の恵み、畑の恵み、半農半漁の豊かな生活の歴史。そして土足で踏み荒らし生きることを奪ったチッソ工場汚染水銀排水の軌跡。水俣病の原因を探るために猫実験に使われた小屋も展示されている。水銀は神経細胞を破壊、母体を通して胎児に広がった。

1970年代はじめ、患者が最初に裁判を起こした時、支援する人たちが作った「怨」の旗もある。私が25歳の頃、結婚して間もなく、子供が生まれた頃だった。定時制高校の教員だった。水俣病への抗議はうねりのように広まっていた。大学紛争後、友人の一人は水俣に住み活動を続けた。「怨」の旗を前に酒を飲み夜を明かしたこともあった。忘れてはならないと心に誓った記憶がよみがえると云うのは、私の中で<水俣>が薄れていった証拠だ。老人の若き日への責任を思う。喜びを若者と共にすることも大事だが、自分の見た悲しみを伝え残さねばならない。物知り顔に勿体ぶって「水俣病は複雑な問題だよ」などと云うのだけは、金輪際やめようと思った。現実から逃げてはならない事だけは確かだ。

プランクトンのいない海のような大きく立派な水俣資料館にも足を運び、環境教育について学んでほしいと思う。そして、不便だが、静かに土の匂いをさせて厳しく建つここ歴史資料館もかならず訪ねたいところだ。

相思社の和室の仏壇に、皆で手を合わせた後、わっぱめし。これは絶品だ。

夕刻、学園の卒業生が経営している武雄温泉の宿へ。博多からOBも駆けつけ、思い出話に夜が更けた。最後は肩を組み寮歌。男たちが大きく見えた。

 

2017年12月21日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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