第90回 レーモンド余話-立教新座チャペル・遠藤新・オルバン教会/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第90回 レーモンド余話-立教新座チャペル・遠藤新・オルバン教会/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第90回 レーモンド余話-立教新座チャペル・遠藤新・オルバン教会

2018年2月9日

「東京人」の今月号(3月号)に建築家アントニン・レーモンドについて短い文章を書き、レーモンドの自伝を読んだ。大部なものだが、なかなか面白い記事に出会った。

レーモンドが日本にやって来たのは、1919年(大正8年)31歳の時。帝国ホテルの設計施工の助手として、フランク・ロイド・ライトと共に来日した。以来、戦中の10年間を除き、44年間、妻ノエミと共に日本での生活を送った。亡くなったのは、1976年(昭和51年)88歳。
彼が手がけた建築でよく知られているものでは、「アメリカ大使公邸」「東京女子大学」「カナダ大使館」「聖心女学院初等科校舎」「旧聖路加病院」「ICU図書館」「南山大学」「群馬音楽センター」など、日本におけるモダニズムのもっとも良質な部分をこれらに見ることが出来ると云われている。
ライトは、帝国ホテル開館直前にアメリカに帰国し、再び日本の土を踏むことなかった。一方レーモンドは日本に残り1923年9月1日の開館式典に出席した。この日9月1日に関東地方は大震災におそわれたが、帝国ホテルはその難を逃れる。「地震に強い米国建築家レーモンド」の声望が一気に高まった。
レーモンドは、私の前任校である立教新座高等学校の旧本校舎(2014年新校舎竣工により解体)並びに聖パウロ礼拝堂も手掛けているが、2011年の東日本大震災の時も本校舎(1960年竣工)もチャペルも微動だにしなかった。
自伝には、こんな記事がある。
「埼玉県志木の立教高等学校の、聖ポール教会は、多くの人を喜ばせる。そのロマンチックなところが、たいていの人に中部ヨーロッパのやや厚みがかった後期ゴシックの、穹窿状屋根を思い起こさせるからである。私は当初、軽いコンクリート・シェルを集成しようとした。しかし想像力に欠ける技術者の手で規制され、意図したものよりも厚いものになってしまったのである。
窓は全部、コンクリートに直接埋め込まれた色ガラスで、原色をまばらに散らせてあるが、普通の労働者とノエミの手によって実施された。音響効果は素晴らしく、そして事務所に囲まれた中庭の中心には鐘塔がある。塔のデザインは、丹下健三による関口台町の東京カテドラルのフランク・ロイド・ライトが計画したマイル・ハイ・タワーを思い出させるような自由の形のものではない。静的なデザインは、教会自体の感じにあったものなのである。」
建築は、ノアの箱舟を模したものだとも言われているが、中部ヨーロッパのゴシック建築のイメージもあったことを始めて知った。コンクリート壁は分厚く出来ているが、これにはレーモンドも不満だったようだ。ステンドガラスには夫人ノエミさんのデザインもあったのである。夫人は絵画やデザインにもすぐれた作品を残している。

ライトの設計との差異化も述べられているが、レーモンドとライトの確執にはすさまじいものがある。帰国直前、震災前のことだ。ノエルとはライトの妻。
「ある寒い日の夜半、夜着のままのマダム・ノエルがいきなりこちらの寝室に飛び込んできて、ライトが下卑た言葉で彼女の罪をあばきたてる、それはひどい仕打ちで私はもう耐えられないと泣いて悲しんだ。私たちはパジャマのまま、彼女をとにかく腰掛けさせ、ノエミはその足許にすわった。再びドアが開き、昔風の短い袖のついたナイトシャツを着たライトが大股で現れ、劇的なポーズで私を指さし、『裏切者!師に対し、この生き物に平穏を与え、陰謀を企て…』などというのだ。さらに彼は、私たちのベッドに入り、ムッソリーニのように芝居気たっぷりで、ベッドカバーを肩に拡げ、マダム・ノエルの泣き声を伴奏にして、私たち三人に対する非難を続けた。」
なんともすさまじい夫婦喧嘩である。どうも、自然の空気を一杯吸ったようなライトの建築などからは想像できない人間くさい記事である。

自伝は、南沢の自由学園を設計した遠藤新氏に対しても人物評をしている。
「ライトのもとで働こうとしたほとんどの人は、芸術家タイプであった。割り切った技術と工学への指向は誰も持ち合わせていなかった。ほとんど全員がライトの芸術家気質、長髪やその格好を真似ていた。中でも遠藤新は最も愉快で、能力があった。彼はなかなか優れたドラフトマンであり、頑丈で、背は低く、わずかに口ひげをたくわえていた。目には見せなくとも思い瞼の間に、ユーモラスな輝きがあった。彼は、できる限りライトの装いを真似るほど、非常に師に対して尊敬心を持っていたが、当然欠けるところはあった。ライトの高価な鹿皮の服や、大きなマントや、ふさふさした白いたてがみをつける、ブリューゲルの描く百姓の帽子にも似た帽子は、最高の質と技術によるものだったからだ。またライトは十分な背丈があったが、従う遠藤新は歯痒くもサンチョパンツアをしのばせた。ライトが日本を去って後、遠藤は自由学園や神戸の甲子園ホテル、その他を設計した。すべてはライトのマンネリズムの模倣で、当然のこと、師の天才はなく計画にも細部にも独創性がなかった。」
なかなか辛辣な批評だが、遠藤建築がライトの意志を見事に継いだ設計であることが証明されたような記事である。

もう一つ、まことに個人的ながら、50年も前に私たち夫婦が挙式した、芝の聖オルバン教会についても記述があった。
「教会のデザインには、財政的な制限がしばしばおこる。東京のど真ん中に、礼拝堂と日曜学校を、2万3千ドル以下で建てるようデザインするのは困難なことであった。成就できる唯一の方法は、丸太の皮をむき紙やすりをかけ、そのほかの部分には何も塗らず何の仕上げもせずに、普通の日本の技術を取り入れることだった。その目的のため、私は二重柱と二重トラスを図面上でのみ説明できるような方法で、複雑に入り組ませ、極めて軽快な構造にすることを思いついた。再び私たちは、家具、祭壇、それに諸道具を含め、関係するデザイン一切を果たした。美的にも中々よかったが、稀なのは教会の評判として成功をおさめたことである。」
結婚式でむき出しの木の香りに感動していたがあれは予算軽減策だったのだ。
私はレーモンドの影響下の空間でその節目と長い時間を過ごしてきたのだ。
戦時中、レーモンドはアメリカへの帰国を余儀なくされた。彼は日本への愛情と、対日戦略のはざまで苦悩する。奈良・京都への無差別爆撃の禁止要請、そして一方では日本家屋への効果的爆撃の進言を行ったと云う。
彼の建築は日本の風土と調和し、四季を呼吸し、日本の住宅の持つ繊細さを取り込みながら、国際的近代建築の草分けの役割を果たした。彼の設計の信条は、「自然性」・「単純性」・「直截性」・「正直性」・「経済性」だった。私はその何分の一かの影響を受けているのであろう。

読み応えのある自伝であった。

 

2018年2月9日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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