第124回 修養会旧約聖書「ユダとタマル」/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第124回 修養会旧約聖書「ユダとタマル」/最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第124回 修養会旧約聖書「ユダとタマル」

2019年4月30日

国立女性教育会館で行われた新入生の修養会で、『旧約聖書』創世記38章1節-30節のユダに関連する話をした。
長男のエルが亡き後にユダは、長男の嫁で寡婦となったタマルに二男オナニを嫁がせようとする。家の継続を願ったのである。しかし、オナニはそれに背き「兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。」この行為も主の意志に反することであったのでオナニも殺される。
因みに、オナニが子種、精液を無駄に地面に流した行為が後にオナニー(自慰行為)の語源となっていることはよく知られている。又、「聖書」では、性行為に及ぶことを「入る」という表現を使っている。ユダは、残されたタマルを三男シュラの嫁に迎えて家を継がせようとするがまだ彼が幼かったので、タマルを実家に返す。(ユダはおそらくタマルとの関係が二人の兄を死に追いやった原因だと考えていた)
それから年月がたち、ユダが羊の取引にやってきた時に、シュラに嫁がせてもらえないと知ったタマルは顔を覆い路傍の娼婦となってユダを誘い、ユダも「さあ、あなたの所に入らせてくれ」と関係を結んでしまう。ユダは娼婦が息子の嫁タマルだとは気がつかなかったのである。タマルは三月後、姦淫の罪で人々から責められるとタマルから行為の証にもらったユダの証拠の品を示し、救われ、双子のベレツとゼラを生んだ。
劇的なこの物語をぜひ忠実に聖書で読んでほしいと思います。横暴なユダのふるまいはわたしの要約では手に余ります。

私がここでこの聖書の箇所を取り上げたのは、旧約聖書の世界がなんとおぞましい世界に満ちているかと云うことを知らせたかったからです。
「マタイによる福音書」の冒頭、イエスキリストの系図に示されているように、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってベレツとゼラを・・」がこの話ですね。云うまでもないことですが、この系図の最後に書かれているのがイエスです。

もう一つこの話を取り上げたかったのは、タマルの行動が<神殿娼婦>の行為として聖書が取り上げているからです。神と娼婦の関係が、私の中で深く印象に残っているからです。
この箇所を読んだ(読まされた)のは、私が大学の学生キリスト教青年会(学Yと略称)の3年の春合宿、千葉の海岸だったと思います。
私は、大学の1,2年は法学部でした。亡くなった父の友人が手広く建築会社をやっていて、法学部を出たら就職先は心配するなと云ってくれたからです。
しかし、その頃の立教大学の法学部は東大植民地、「教授一流・学生三流」などと呼ばれ揶揄されていました。受験倍率実質1,5倍を切った学生だなどとも教授に言われました。(同級生の名誉のために云っておきますが、今も法曹界で多くの人が活躍していますから、出来が悪い学生ばかりではありません)私に法学部は性に合いませんでした。何しろ法律を記憶するなどと云うことをまったく出来ないのです。権威主義的な教授を教室で「真面目に講義しろ、自慢話は聞き飽きた」などと批判し、下駄履きのまま黒板の前に呼ばれたこともありました。この話は仲間が集まるとケンジの武勇伝などと笑い話になりますが、その頃の私の独断的解釈によれば、法学部、法律へ離縁状のようなものでした。
思い悩みながらも、3年で文学部へ転部しました。ですから、この話を聞いたのは文学部への転部の新入生としてでした。

ユダの話について、<聖書は文学だ>と語った先輩の強い言葉は今も耳底に響いています。たしかに、父と息子の嫁との性交渉・父の裏切り・息子の虚無・神前の売春行為、ここに描かれているのは、崇められる神々の話ではありません。欲望に満ちた人間の醜悪な世界です。聖典のイメージはありません。文学が赤裸々な人間の生き様をそのまま描き混沌の世界へ招き寄せるものだとするならば、まさにこれは「文学の世界」なのです。
この世界から逃避的になり、清純ぶった楽天主義者のように祈りを捧げる姿が、キリスト教の本質だと考えている人には、このユダの話は、目を覆いたくなるでしょう。キリスト教教育の家族主義(もちろんその教えの良さも私は理解しているつもりです)などといった考えに沈潜している人にとっても耳障りのいい話ではありません。気持ちよくフレッシュな気持ちでやってきた新入生にこんな話をするのは渡辺の自虐趣味のなせる業じゃないですか、とも云われそうです。しかし、私は、聖書とはこのようなものだ、神の教えの崇高な提示だなどと先入観を持ってほしくないのです、 おぞましい世界、人間の欲求に真正面から向き合ってほしいのです。それを私なりの言葉で言えば、生まれ出ずるものが持っている原罪の表象だと思えるのです。この世界に向き合うことなしに次の世界は生まれません。

何故このような世界を書き残して、旧約聖書と新約聖書が一体のものとしてこの世に流布しているのでしょう。他の宗教の事を知りませんが、少なくとも道徳への指針は、過去を抹殺することから始まります。悪を地獄の様相として否定し新たな世界が生まれます。だが、キリスト教は違います。旧約の<地獄>は、否定媒介となって新たなイエスを生んでいくのです。否定して切り離すのではありません、否定しながら一体化するのです。否定媒介と云ってもいいでしょう。過去を媒介して現在につながるのです。

私が、この後夏休みに入って読みふけったのは、キルケゴールの「死に至る病い」でした。それはもっと絶望の淵に引き込まれるようなキリスト教体験でした。ボランティアでハンセン氏病の島を訪れたのもその夏でした。
語りえぬ時間が過ぎて私が受洗したのは、この年のクリスマスでした。
新入生諸君に神の御加護があらんことをいのります。

 

【追記】
神聖遊女(日本で言うならば神前の巫女と遊女)についての関心がわたしの学問の中心に据えられ、タマルからマグダラのマリアへ、さらに江戸時代の遊女に興味が移っていったのは、紆余曲折を経たもっと後の事です。そのことについては機会を改めますが、ユダの話が一粒の種となったことは確かです。

 

2019年4月29日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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