ヒベット先生への追悼文が、5月20日毎日新聞朝刊に掲載されました。ヒベット先生と私のご縁は短く細いものでした。追悼文を書くなど無恥、まことに烏滸がましいことですが、少し思い出を書き加えておきます。
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この目録の完成を非常に喜んでいただいたお一人がヒベット先生でもう一人は、2011年に98歳でお亡くなりになったコロンビア大学東アジア図書館司書の甲斐美和先生です。アジア学会の折とコロンビア大学に行った折にお会いしました。お会いしたのは90歳の頃かと思いますが大変チャーミングな魅力的な方でした。その時は、アメリカの日本文学研究の偉大な礎石となった甲斐先生の一生を書いてみたいと真剣に思いました。厚顔、軽率な話ですが・・・。
コロンビア大学の校内のバー?でウイスキーを飲みながら、イタリア映画「海の上のピアニスト」についてお話を聞いた帰路でした。「海の上のピアニスト」は、豪華客船で生まれその一生を船の中で過ごした天才ピアニストの話です。
「L.Cの日本の本はね、日本が負けた時ね、なんだか悔しくて情けなくてね、泣きながら段ボールに梱包したのよ。」とハンドルを握りながら話されたのを思い出します。戦中における日系人強制収容所の米軍施設での経験など・・・、多くの話は記憶から遠のいてしまいましたが、車で流れていたのはラフマニノフのピアノ曲でした。忘れられません。甲斐先生は、1930年代の日本を代表するピアニストであり、日本人として最初のショパンコンクール出場者でもありました。「海の上のピアニスト」の主人公が舷窓から自由を求めニューヨークの岸壁に上陸しようとする移民の少女を見つめ、恋し、初めて陸に上がろうとしたシーンがあります。私にはその少女が甲斐さんに思えて仕方がありません。
寡黙なヒベット先生からは「いい仕事をしたね」の短い一言でした。感激し立ちすくむ思いがしました。ヒベット先生は、1942年から46年まで米軍の日本語教師を務めていましたから、甲斐先生の思い出と重なるものがあったのかもしれません。『Contemporary Japanese Literature: Fiction, Film, and Other Writings 』1977年(この本はアメリカで日本文学研究を目指す学生には今も必読書でしょう。)・『Modern Japanese: A Basic Reader』1965年(この本の共著者、ハーバード大学教授板坂元先生は、元武蔵高校教諭で私の恩師白石悌三先生の親友でした。)・江戸文学の浮世草子研究である『 Floating World of Japanese Fiction』1959年(西鶴を世界的作家としたもの)などの他に谷崎潤一郎作品の英訳がよく知られていますが、私にとって大切な一冊は、『A Harp of Burma』(「ビルマの竪琴」1966年)です。1956年と1985年と2度も映画化されました。私と同じ年代のものの多くは、学校で皆と一緒にこの映画を見ているのではないでしょうか。息をひそめる日本軍。薄暗いジャングルの向こうから聞こえてくる敵国英国兵の「埴生の宿」。それに唱和する日本兵。戦争を知らない当時の若者が映画館で真正面から戦争と平和に向き合ったのです。英語のサブ教科書としてヒベット先生のこの訳本を読んだのは大学生でした。「埴生の宿」のメロディーはしばらく私の中から離れませんでした。それは、今、甲斐先生のラフマニノフとも共鳴しています。国境を越えた平和へのいのりがあったのです。
立教大学で「交通と日本文学」といったテーマの基調講演をヒベット先生に依頼しましたが、固辞されました。それでコメンテイターをお願いしました。先生のコメントは、講演時間とほぼ同じ時間の熱いものでした。内容は江戸の戯作の翻訳についてであったと思いますが、ジョーンズ先生の記憶によれば、「VERITAS」について長くお話しされたとのことです。ラテン語「VERITAS」は真理たれとでも訳すのでしょう。ヨハネによる福音書の「真理は我らを自由にする」と関係する言葉でしょうか。「VERITAS」は、ハーバード大学の校是とも言うべきものです。与えられた真理による自由、つまり受け身ではなく真理を求め積極的に自由を獲得するとでも云うのでしょう。日本とアメリカの不幸な戦争の結果によって得られた自由が、悲しい犠牲によって得た、未来志向の真理探究の結果を示唆していたと思えてなりません。未翻刻未紹介の江戸の戯作を紹介し、江戸の笑いを国際的に伝えようとした先生の翻訳作業は、文学が獲得すべき自由への厳しい真理への道のりだったのです。
2019年5月22日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)