第128回 沖縄鉄血勤皇隊遺書/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第128回 沖縄鉄血勤皇隊遺書/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第128回 沖縄鉄血勤皇隊遺書

2019年6月30日

学園のタイサンボク。白い大きな花びらが散る頃、忘れてはならない記憶が消えていくような気がする。

6月21日金曜日。
午前中、妻に誘われミキ・デザキ監督の映画「主戦場」を見に行く。遊女に関わる文学研究を行っている自分にとって慰安婦問題をあつかったこの映画は必見だと自覚していた。が、何も急がなくてもと云う迷いがあった。いかに自分の研究と慰安婦問題を対峙させるか、真正面から向き合おうと思っていたが、腰がひけていたのだ。この映画で発言している愛国的?識者から上映差し止めの声が上がっているとの報道も私を急がせた。
映画ははっきりのとこの国が抱えている恥部を突き付けている。私は曖昧に平和を愛している自分を恥じた。遊女の誠を語り継ぐことと、慰安婦の悲劇を語り継ぐことは一線上なのだ。自虐的と云われようと、日本の歩んだ過ちに向き合あわなければ、次の一歩は来ない。

22日。
高等科男子部生徒への大学最高学部説明会。教師数と学生数の比率は、1対4、この状況を支えるのは卒業生の絶対的支持と強固な自由学園プライドだと強調。卒業生にこれほど愛されている大学は他にないのだ。
駅までどしゃ降り。慌ただしく機上。飛行機は2時間遅延したが、沖縄は午後8時近くでも夕暮れ。
国際通りから高架下の栄町商店街。ここはジャズの流しがまだ現役。外(そと)はホッピー、中(なか)は泡盛。沖縄おでんに赤犬が尾っぽをふる。「元気がつきすぎだよ」などと云われながら大盛り島ラッキョウをお変わり。スコールで軒下に退散。

23日。
少し若さが戻ったかもしれない。宿酔、頭痛。
県庁前からシャトルバスで糸満、摩文仁(まぶに)の平和祈念公園へ。
隣席は95歳?「南洋に行ってたよ。捕虜にもなれたさ。ここは捕虜になりきれんかったもね。日本軍が厳しかったから・・」マンションが立ち並ぶ街並み。「あの向こうに清水がわいてたさ。船で行くもんがこの水汲んださ。」
沖縄全戦没者追悼式。式辞の最初は、沖縄県議会議長。奄美大島の宇検(うけん)村船越(ふのし)海岸に対馬丸慰霊之碑が出来、村の老人から救出や埋葬の話を聞いた話が伝えられる。北方領土問題での国会議員の戦争肯定発言にも触れる。
12時。1分間の黙祷。献花に続き県知事の平和宣言。民意無視の辺野古基地建設反対表明に指笛と拍手。次に小学6年生の「平和の詩」朗読。

「青くきれいな海」
この海は
どんな景色を見たのだろうか
爆弾が何発も打ちこまれ
ほのおで包まれた町
そんな沖縄を見たのではないだろうか
・・・・
「命どぅ宝」
生きているから笑い合える
生きているから未来がある
令和時代
明日への希望を願う新しい時代が始まった
この幸せをいつまでも」

隣の席のおばあさんが何度も何度も「かわいいね かわいいね」と涙をふく。続いて安倍首相があいさつ。基地負担軽減の実績を強調。会場は怒号とヤジ。すると突然隣のおばあさんが大声で「ウソつき―」と叫んだ。警備員が私の目の前で「やじや大声を出した人は退出してもらいます」と書かれたプラカードをかかげる。壕(ガマ)をかたどったという会場のテントに激しい雨が吹き込む。摩文仁の涙雨だ。

13時。閉会。帰りのシャトルバスは長蛇の列。
隣だったおばあさんとバスを待つ。「沖縄で生まれたの」「いや、北海道です」と私。「そう、北海道の兵隊さんが一番多く死んだんだよ」
満州から移動した旭川歩兵89連隊が、沖縄県民についで多くの犠牲者を出したことをこの時はじめて知った。

16時。首里高校「一中学徒隊資料展示室」(養秀会館)へ。
6月14日の「朝日新聞」誌上、太平洋戦争末期の沖縄戦で「鉄血勤皇隊」に動員され戦死した旧制沖縄県立第一中学校(現・首里高校)の学徒たちが書いた遺書の修復が終わり、公開展示されていることを知った。「鉄血勤皇隊」は、沖縄戦末期に召集された14歳から16歳の学徒による少年兵部隊だ。
『沖縄県史』によると、沖縄戦で旧制の師範学校と中学21校から、判明している者だけで、14歳から19歳の男子約1500名、女子約500名が動員され、多くの犠牲者を出し半数以上の少年少女が亡くなった。
このうち、第一中学校の動員数は371名、戦死者210名。(『歩く・みる・考える沖縄』)展示パンフレットでは、「わが国唯一の地上戦で290名の1年から5年までが学業半ばにして無念の死を遂げた」と記す。

展示室には、犠牲となった生徒の写真が並び、記憶を記すファイルがある。
「日本一の卒業式」と題した1年3組知念宏章君の一文。
「もうすぐ4月という時に、上級生の数人が壕を訪ね歩き「本日夕方、義秀寮で、4年生、5年生の卒業式が挙行されるから参列するように」との通知を受けた。」「まだ明るい6時半ころ、壕を抜け出し、敵機の攻撃の合間を縫って、石垣沿いに寮にたどり着いた。寮生を含め首里近郊から集まった先輩たちが200名余り、緊張した面持ちで待機していた。7時を過ぎた頃、月光照らされた広場で、粛々と<日本一の卒業式>が挙行された。」「艦砲射撃の炸裂音が寮にも届き、炸裂時のあの独特の赤い色が煌めいて、まるで一中最後の卒業式に花を添えるかのようであった。」と記す。
月光の下、「日本一の卒業式」。これほど悲しい「日本一」という言葉を聞いたことはない。生徒を軍属とするために、学籍の離脱を急いだのだ。卒業式は昭和20年3月27日、米軍沖縄上陸は4月1日。

「絶対捕虜になってはいかん」と題された2年高嶺朝勇君の一文。
「渡久山君と行動を共にしていると一人の一等兵が仲間入りした。彼は吾々二人に何度も軍人の本分について精神訓話を聞かせた。「絶対に捕虜になるな」と注意し、米軍が近づいたら一緒に自決しようと吾々を説得した。彼は吾々に手りゅう弾を配ってその使い方を教えた。翌朝、物音で目をさまし、気がつくと米軍が吾々をにらんで銃を向けていた。僕は手りゅう弾の信管を抜きかけたが隣の渡久山君が真先に手りゅう弾を発破させてしまった。僕はその爆風を受けてひっくり返った。暫く意識を失い、気がつくと僕は米兵に捕まっていた。隣の渡久山君は既に息絶えていた。憎ったらしいことにその一等兵は真先に手を挙げて捕虜になりやがっていた。全くいまいましい。そいつは恥ずかしくなったのか、収容所に着いたら僕の前から姿を消してしまった。」

そして、同じく2年渡久山朝雄君の遺書。
「母上様
永らくご無沙汰致し誠にすみません。お母さんもお祖母さんも、姉さんもお元気の事と推察致します。私も大元気で本分に邁進して居ります。首里市は空襲も艦砲射撃もまだ受けていません。こちらは大丈夫です。読谷(よみたん)方面はどうですか。敵の艦砲射撃も空襲もだんだん激しくなる筈ですが、お母さん達はなるべく国頭(くにがみ)、の方へ疎開した方がよいと思います。お祖母さんの事はくれぐれもよろしくお願い致します。私も愈々、球部隊の予備通信兵としてお役に立ちますことの出来る事を身の光栄と存じ深く感謝致して居ります。若しものことがあったとして、決して見苦しい死に方はしないつもりです。日本男児として男らしく死にます。もう時間がありませんから、(寛勇君が帰るとのことで)くれぐれもお身をお大事に、私の事は少しも気に掛けずに。ではさようなら。
3月25日 夜9時40分
お母様
朝雄」

この遺書に注記があり、「これは渡久山君が通信隊入隊3日前に知人に託して家族に届けた遺書である。渡久山君は6月25日頃摩文仁の東側で敵中突破の途中、米軍の捕虜になる寸前に手りゅう弾で自決した。」と記されている。球部隊は、第32軍(牛島中将の部隊)の通称、球は多くの地元防衛召集兵が居たためという。兵は人間ではない犠牲の鉄砲玉だった。6月25日は、日本軍牛島満中将の自決によって沖縄戦終了の日とされている日の2日後の事だ。

一中の学徒のみが遺書を書き残したという。遺書は撤退の途中かめに納められ、土の中に埋められた。戦後4年目に掘り出され、約40通の遺書や遺髪が取り出された。一部は遺族の手に、約30通を首里高校で保管、2016年に同窓会の依頼によって修復作業が開始され、今年5月下旬までに10通ほどが修復された。

写真にあげた遺書は、4年生比嘉松堅君のもの。6月15日三和(みわ)村新垣(あらがき)で亡くなっている。彼はアルゼンチンで生まれ、日本の教育を受けるために中城村の祖父母の下で養育されていた。「泣くな嘆くな必ず帰へる 桐の小箱に錦着て 会に来てくれ九段坂 御身を大切に さよなら さよなら」などとある。

閉館時間が過ぎていたにもかかわらず、沖縄戦語り部でありかって首里高校で美術科の教師であった友寄賢吉氏の丁寧な説明を受けた。再訪を期すとともにあまりに駆け足訪問であったことを陳謝申し上げる。
この日正午には、「一中健児之塔 慰霊祭」が行われ、「オオゴマダラ」が放蝶されたそうだ。展示室から山道伝い、切通しの道に、戦車体当たり作戦の爆薬を保管した壕などがある。首里への坂を下ると深い緑のなか、赤い花にまじってオレンジ色の花が咲いていた。オオゴチョウの花であろうか。

6月24日。
早朝、那覇発。午後部長会の後、夜は日本橋劇場でヒロシマ・ナガサキの原爆投下を語り継ぐ女優たちの朗読劇「夏の雲は忘れない」公演へ。子供たちの作った詩を聞きながら、何処へというあてもなく怒りがこみ上げる。この朗読劇も女優たちが高齢であるため今回で最後だそうだ。

6月26日。
タイサンボクの花びらが芝生に散り落ちていた。女子部高等科の礼拝で沖縄のことを話し、タイサンボクの押し花の作り方を伝授。聖書の間に挟むと、茶色になって色も変わり香りも失われるが、微かな記憶をたどれるような気がするのだ。
夜、NHKBSで「TOKYOディープ」総集編が放映。ゴリさんの番組。吉原関連でゲスト出演。現代風俗を取り上げたいい番組つくりであった。

 

2019年6月30日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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