第139回 熊本雑記(二本木・檜垣・キムラロック)/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 自由学園 最高学部(大学部)/ 最先端の大学教育

第139回 熊本雑記(二本木・檜垣・キムラロック)/前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」 - 最先端の大学教育【自由学園 最高学部(大学部)】

前最高学部長 渡辺憲司のブログ「時に海を見よ その後」

第139回 熊本雑記(二本木・檜垣・キムラロック)

2019年12月21日

11月29日から2泊3日で熊本。目的は、日本エイズ学会での講演。
チェクインまでの時間、駅近くにある二本木神社を訪ねた。二本木は西日本一とも称された遊郭。明治末年廃娼運動の中で歌われた端唄に、

何をくよくよ川端柳 焦がるるなんとしょ 水の流れを見て暮らす 東雲のストライキ さりとはつらいね てなこと仰いましたかね

とあるのは有名だ。「東雲節」、俗称「ストライキ節」と称して全国に広まった。遊女のストライキは二本木が発祥の地ともいう。(名古屋の中村遊郭が発祥とも云う)
1994年、映画「東雲楼 女の乱」にもなった。ラストシーンで主演のかたせ梨乃が、海辺を走るシーンを学生と一緒に見たのを思い出す。
読売文学賞をとった村田喜代子さんの「ゆうじょこう」もここが舞台。南の島から売られてきた少女が二本木でひたむきに生きる姿を描いたもの。この作品の書評を新聞で取り上げたのがご縁で、村田さんと対談したこともある。
鳥居の両脇に、狛犬二頭。台座に「二本木娼妓有志者中」とあり、明治39年に献納されたと記す。周辺は全盛を誇った遊郭街だが今はその跡形もない。


  • 二本木神社 狛犬

  • 蓮台寺 檜垣の塔

隣町の蓮台寺には檜垣の塔。檜垣は平安中期の女性歌人。
塔は二メートル弱の小ぶりなものだが、実に品のいいものだ。
塔の前の門には、二本木遊郭の郭主の名がびっしりと彫りこまれている。献納の年代(昭和初期か)は、日暮れも近く、草も絡み読み切れなかった(無かったような気もする)が、苦心惨憺して遊郭の名を読む。右には、「発起人 蓮台寺 幸楼本店 清川楼 寄付者 鶯楼 湊川楼 福恵楼 美人楼 松亀楼 博多楼 ・・・」左にも「世話人 富貴楼 橋立楼 日本楼 寄付者 八起楼 旭や 二葉楼・・・」ざっと数えて50軒ほどの遊女屋(ほかの店も混じっているかもしれない)の名前があった。とにかく二本木が、大変な数の遊郭で繁盛したことがうかがい知られる。

世阿弥の能『桧垣』は、修行をする僧の前に老女檜垣が現れ、「年ふればわが黒髪も白河の みづはくむまで老いにけるかも」(後撰集)と歌ったのは自分であり、白拍子として美しさを誇った生前の罪によって死後も苦しんでいるとわが身を嘆く、そしてやがて僧の弔いを受け老女の霊は華やかだったころを思い出し舞いながら姿を消すという筋だ。

40年も前。下関にいた頃、「山口新聞」での連載エッセイの取材で熊本在住の歌人安永蕗子さんを訪ねたことがある。その時「熊本の女性としてまず思い浮かぶのは桧垣です」と語っていたのをはっきり思い出す。桧垣は京の都で白拍子であったとも伝えられている。その故であろう。遊女たち参詣がこの寺に多かったのであろうか。たぶんそうではあるまい。もしもそうであるのなら玉垣に遊女の名前があっていい。ここにあるのは楼主たちの名前ばかりである。

安永さんにこんな歌がある。

風おちて鈍き海波ゆられつつ終末海を鳥がついばむ(魚愁)

石牟礼道子さんに誘われて、水俣を訪問した時の歌であったと聞いた。苦悩に強く感応される方だった。

フィルムを買いに鶴屋デパートのクラッシックサロン。東京のカメラ屋で売り切れた1913年のバルナックのライカの記念モデルがあるではないか。よだれが出たが踏ん切りがつかない。興奮のまま、案内されて奥のリスニングルーム。ハイエンドオーディオでシューベルトを聴く。スピーカーは、「タンノイ ウエストミンスターロイヤルゴールドリファレンス」、極度の音痴もこれには浸った。

夜、馬刺しで浅酌の後、熊本ラーメンで〆ていると、店に木村政彦生誕100周年記念焼酎「キムラロック」と書かれた宣伝ポスター。木村政彦は日本プロレス選手権で力道山と戦った日本最強の柔道家。小学生の頃、死んだ親父が「力道山に負けてやったんだ、木村が本気になったら力道山は死んでいる」などと、ぶつくさ言いながら酒を飲んでいたのを急に思い出し、「キムラロック」で沈酔。因みに木村は、熊本市川尻の出身。川尻は熊本地震で大きな被害のあった所だ。

翌日午前中、熊本友の会に顔を出す。懇談の後、近くのリデル、ライト両女史記念館に案内してもらう。館は、熊本地震以降閉館、周辺の記念碑などを見、しばらくリデルのハンセン病救済への思いを追う。

午後、熊本城ホールの「日本エイズ学会」で講演。市民講座を兼ねていたので多くの人が集まっていた。題は「性の文化史-衆道を中心に」。江戸時代の男色文化の様相を話す。座長は、エイズ治療新薬を発見、今日本でもっともノーベル賞に近いという満屋裕明氏。学会終了後、夜の会食で研究余話を聞く。アメリカでの開発苦労話、一言一言が重く響いた。フロンティア精神を目の当たりにして新たな感動。エイズ差別への払拭を強く思う。

翌朝。熊本城を散歩。地震から一歩一歩復活をとげている。石垣の被害に地震の大きさを実感。西南の役、熊本城を死守した谷干城の像を見る、彼の夫人玖満子の功績を讃えた新聞記事を書き記者としてデビューしたのが羽仁もと子(記事は匿名)。ミセス羽仁のジャーナリストとしての出発であった。谷干城への評価、各様で定まりそうにないが、舘林の「足尾鉱毒事件田中正造記念館」に行った折、壁に田中正造の支持者として、勝海舟と共に谷干城の写真が貼られていたのに驚いたことがある。

昼の便で、『明日の友』取材で沖縄へ。この事は又あらためて記す。

 

2019年12月20日 渡辺憲司(自由学園最高学部長)

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